宇多源氏

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源 済政 源 資通

 一条朝前期に六位蔵人・式部大丞を経て、長徳年間に従五位下に叙爵。のち、五位蔵人や阿波権守,信濃守などの地方官を務め、長保4年(1002年)従四位下に叙せられる。この頃、右近衛少将に任ぜられると、寛弘6年(1009年)左近衛少将、寛弘7年(1010年)右近衛中将と一条朝後半は近衛次将を務めた。
 その後、中将を辞して修理権大夫や太皇太后宮亮などの京官を務め、長和2年(1013年)正四位下に叙せられている。また、美濃守,讃岐守,近江守,丹波守,播磨守など、三条朝,後一条朝,後朱雀朝の三朝に亘って地方官も歴任した。しかし、公卿昇進はならず、位階は正四位上に留まる。 
 後朱雀朝の長久2年(1041年)2月卒去。享年67。没後従三位の贈位を受け、播磨三位と呼ばれた。     
 藤原道長室である源倫子の甥でありながら、済政は中宮・藤原定子方と親しく、『枕草子』「御仏名のまたの日」の段に箏の奏者として、琵琶の源道方,横笛の平行義,笙の源経房とともに登場する。清少納言が同僚の讒言を受けて里居していたころ、元夫の橘則光以外に居場所を知らせたのは経房と済政の二人くらいであったという。

 後一条朝にて大膳亮,六位蔵人,右衛門少尉,式部少丞を経て、治安2年(1022年)従五位下・侍従に叙任される。
 五位蔵人を務める傍ら、始め左馬助・左兵衛佐と武官を務め、万寿2年(1025年)従五位上、万寿4年(1027年)正五位下と昇進する。長元元年(1028年)左少弁に遷ると、長元3年(1030年)右中弁、長元4年(1031年)従四位下に叙せられた後も、長元7年(1034年)従四位上、長元8年(1035年)権左中弁、長暦元年(1037年)正四位下、長暦2年(1038年)左中弁次いで右大弁と後一条朝後半から後朱雀朝にかけて弁官を務めながら昇進する。長久4年(1043年)蔵人頭(頭弁)に任ぜられ、翌長久5年(1044年)正四位上・参議に任ぜられ公卿に列した。
 後冷泉朝に入り、寛徳2年(1045年)左大弁を兼ね、永承元年(1046年)従三位に叙せられる。永承5年(1050年)20年以上に亘って務めた弁官を離れ、太宰大弐を兼ねて九州に下向し、赴任の功労により正三位に昇進。天喜2年(1054年)まで4年に亘って大弐を務めた。天喜5年(1057年)従二位に至る。康平3年(1060年)8月17日に病により出家し、同月23日薨去。享年56。 
 管弦に秀で、琵琶を源経信に教授した。和歌の心得もあり、伊勢大輔・菅原孝標女らと交流を持つ一方、勅撰歌人として『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に4首が採録されている。

源 政長 源 有賢

 寛徳2年(1045年)後冷泉天皇の即位後まもなく昇殿を聴される。康平4年(1061年)頃に近衛少将に任ぜられるが、康平7年(1064年)に左少将を止められて民部権大輔に遷る。のち、後三条朝末まで10年ほど民部権大輔を務め、延久5年(1073年)後三条天皇の四天王寺・住吉神社行幸の折に笙を吹いている。
 白河朝の承暦2年(1078年)頃に若狭守に任ぜられるが、遙任であったとみられる。堀河朝の寛治元年(1088年)頃より刑部卿を務め、堀河天皇の侍読となって天皇に笛を教授した。その後、内蔵頭に任ぜられ備中守を兼ねている。
 永長2年(1097年)閏1月4日に卒去。享年60。烏丸姉小路にあった邸宅は死後高階能遠に渡ったが、康和4年(1102年)に焼亡している。なお、この他に八条に水閣を所有していたとされる。 
 宇多源氏の神楽・郢曲を父・資通より学んで笛・和琴・琵琶に通じ、それを子息の有賢や刑部卿・藤原敦兼らに伝えた。多くの儀式行事で笛を担当。『続教訓抄』では「左右なき管弦者」と称された。堀河天皇にもこれを教え、常に天皇の傍にいるようであったという。琵琶においても、承暦年間に「琵琶の明匠」として、源経信や藤原宗俊らと共に召されている。同じ頃、白河天皇中宮賢子の大原野行啓の試楽において太鼓をうったが、一拍子も誤らなかったという。また、和歌や蹴鞠もよくしたらしい。

 承暦3年(1079年)に10歳で従五位下に叙爵する。寛治3年(1089年)に昇殿を聴され、中務大輔に初任。寛治5年(1091年)に従五位上・左近衛少将に叙任され、翌年備後権介を兼ねる。寛治8年(1094年)府労により正五位下に昇叙。永長2年(1097年)さらに従四位下に進んだ。しかし、同年閏1月に父・政長が正四位下内蔵頭で死去し、有賢の昇進も停滞する。
 長治3年(1106年)に左京権大夫に任ぜられる。その労で永久2年(1114年)に17年ぶりに昇叙され従四位上となる。永久6年(1118年)には三河守を兼任し、天治2年(1125年)さらに11年ぶりの昇叙で正四位下・阿波守に叙任された。大治4年(1129年)斎院長官を兼帯。翌年には但馬守となった。天承元年(1131年)に鳥羽天皇の院別当となる。 
 長承4年(1135年)、10年ぶりの昇叙で正四位上に進む。さらに翌保延2年(1136年)に従三位に叙せられて67歳にして公卿に列した。保延5年(1139年)の正月に阿波権守を兼ねるが4月に出家。同年5月5日に薨去。享年70。     
 宇多源氏の郢曲を父・政長から学ぶ。笛・和琴・鞠などに通じたという。『続古事談』には堀河天皇が初めての朝覲行幸で笛を吹いた際に、天皇の笛の師である政長の子として、有賢が昇殿を聴された話がある。

源 資賢 源 有雅

 鳥羽院政が開始されると、資賢は院庁の四位別当となる。他の別当には、平忠盛,藤原忠隆といった有力な近臣が名を連ねていた。この頃、資賢は雅仁親王(後の後白河天皇)に呼び出され、今様を通じて交流を深めている。保元元年(1156年)の鳥羽法皇の葬儀では、資賢は信西らと共に入棺役を務めた。鳥羽法皇の死後、保元の乱・平治の乱を経て、政界は後白河上皇を支持する院政派と二条天皇を支持する親政派に分裂するが、資賢は芸能に堪能だったため後白河上皇に気に入られ、院政派に属した。後白河は、賀茂・熊野参詣に資賢を同行させ、美しい光景を目にすると今様で歌うよう要望し、資賢は即興で応えたことが梁塵秘抄口伝集に記録されている。応保2年(1162年)に二条天皇を賀茂社で呪詛したという嫌疑を受けて解官となり、子・通家と共に信濃国に配流されるが、2年後の長寛2年(1164年)に召還される。
 永万元年(1165年)に二条天皇が崩御すると、後白河院政派は政界に返り咲き、資賢は参議、次いで権中納言に昇進する。『平家物語』では院近臣の中心人物である藤原成親と比較して、資賢を「ふるい人、おとなにておはしき」と記しており、院近臣の長老格とみなされていた。資賢は後白河院の好む今様の宴にたびたび出席し、厳島参詣にも付き従った。後白河主催で承安4年(1174年)9月1日から15日間連続で行われた今様合では、今様の識者として勝敗判定役を務めている。安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀では藤原成親,西光が失脚するが、資賢は関与しなかったようで処罰を受けることはなかった。治承3年(1179年)10月9日には、5代前の時中以来途絶えていた権大納言に昇進している。     
 しかし、直後に起こった治承三年の政変により、院政派の筆頭として解官となり、子の資時,孫の雅賢と共に京外へ追放された。これは松殿基房,藤原師長に次ぐ重い処罰だったが、翌年7月には赦免され帰京した。資賢赦免の背景には、後白河院からの宥免要請があったと考えられる。養和元年(1181年)12月に権大納言に還任するが、翌養和2年(1182年)3月に孫・雅賢の左中将昇任を申請して辞任し、程なく出家した。法名は円空。出家を聞いた吉田経房は「現世栄望過分の人なり」と評した。それから6年後の文治4年(1188年)2月26日死去。享年76。

 佐々木野を号し、佐々木野中納言と呼ばれた。叙爵の後、文治5年12月(1190年2月)に侍従に任ぜられ、建久元年(1190年)10月に父・雅賢の参議辞任と替わって右近衛少将に任ぜられる。
 建久3年(1192年)7月、出仕をしないがために除籍される。5年後の建久8年(1197年)正月に従五位上に叙せられ、建久9年(1198年)美濃守に任ぜられた。建仁3年(1203年)には従四位上・右近衛権中将に叙任された。
 承元2年(1208年)蔵人頭に補任され、承元3年(1209年)参議に任ぜられ公卿に列す。右兵衛督・検非違使別当を経て、建暦2年(1212年)6月に権中納言に昇任。建保元年(1213年)には蹴鞠で使用する紫色の革の襪の着用を聴されている。建保3年(1216年)に官職を辞退して従二位に昇叙。建保6年(1219年)正二位に至った。同年本座を聴される。また、出雲国を知行国としていた。
 承久3年(1221年)に承久の乱が発生。有雅は後鳥羽上皇の寵臣、藤原範光の娘であり順徳天皇の乳母であった憲子を妻に迎えたことから上皇の近臣となっており、その縁から上皇側の将として宇治にて戦うが敗退。出家して恭順の意を示すが鎌倉に送られる。甲斐国の武将・小笠原長清の預かりとなり、護送の途中で甲斐国に下着。ここで有雅は長清に少しの縁故があり、二品禅尼(北条政子)に助命を懇願するのでしばらく死刑の執行を待ってほしい、と長清に願い出るが受け入れられず、7月29日に同国稲積庄小瀬にて斬られた。享年46。政子はこの有雅の懇願を受け入れ、斬首後しばらくして死刑を免除するべきとの手紙が届いたという。
 山梨県甲府市小瀬町の小瀬団地内に残る富士塚は有雅の霊を祀るものとされ、南東方には幽閉地と伝える久品山浄福寺跡がある。静岡県御殿場市新橋の藍澤神社は明治10年(1877年)高杉太一郎らの創建で、有雅と同じく承久の乱で処刑された葉室宗行,藤原光親,藤原範茂,一条信能の五卿を祀っている。
 代々雅楽をする家に生まれ、右馬頭・源資時より神楽を習う。父・雅賢からは和琴と催馬楽を伝授され嫡男・資雅に伝えている。