宇多源氏

K322:宇多天皇  宇多天皇 ― 源 雅信 G723:源 雅信

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源 雅信 源 時中

 一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。承平6年(936年)臣籍に降下して従四位下が与えられる。天慶元年(938年)に侍従となり、天慶5年(942年)に右近衛権中将、天暦2年(948年)に蔵人頭、天暦5年(951年)には参議に任ぜられた。更に円融天皇が安和2年(969年)に即位するとその信任を得て急速に昇進し、天禄元年(970年)には中納言、天禄3年(972年)には大納言となり、貞元2年(977年)には右大臣、貞元3年(978年)には左大臣となり、死去までの15年間その地位を守った。没後に正一位・太政大臣を追贈された。
また、後世に朗詠の祖とまで言われた。他にも有職故実や和歌,蹴鞠にも通じていたといわれている。その一方で村上天皇の時代、侍従として天皇の側で仕えていたが「仕事中には公務の事しか口にしない堅物」だとして村上天皇からはやや敬遠されたともいわれている。「大鏡」によれば、「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」という念誦を毎日百回行うことを日課にしていたという。
 天元元年10月2日、右大臣であった雅信は左大臣に昇進し、同時に左大臣を兼ねる関白藤原頼忠は太政大臣、実の兄である前関白藤原兼通に冷遇されていた藤原兼家が右大臣となった。円融天皇は藤原氏の権力を牽制するために、雅信に一上としての職務を行わせようとした。これは、頼忠・兼家を牽制しつつ自らの親政の実を挙げようとした円融天皇の政策上にあったと考えられる。雅信が一上として太政官を運営する体制は花山,一条朝でも継続された。雅信の願いは、この関係を利用して自慢の娘の源倫子を天皇の后にすることであった。ところが花山天皇は藤原兼家の策動で退位してしまう。更にその兼家の4男である藤原道長から倫子への求婚がされたのである。初め雅信は自分とは政治的対立関係にある摂政の息子とは言え、兄である道隆や道兼らがいる以上出世は望み薄で、しかも倫子よりも2歳も年下である道長では全く相手にならないと考えていた。だが、倫子の生母でもある正室藤原穆子に相談したところ、倫子が宮中に入って子供を生むよりも道長の出世の方がまだ可能性があると主張して、強引に倫子を道長に嫁がせてしまった。これには雅信も道長の父の兼家も唖然としたという。
 雅信は妻の主張が本当に正しいのか確信が持ち得ないままに993年、多くの人に惜しまれながら死去し、祖父の宇多天皇や父の敦実親王ゆかりの仁和寺に葬られた。その2年後道長は内覧藤氏長者となって、妻の判断が正しかった事を世の人々は知ることになった。

 村上朝の天暦11年(957年)昇殿を許されると、右衛門尉,右近将監を経て、天徳5年(961年)従五位下に叙爵する。侍従・右兵衛佐を務めたのち、康保4年(967年)左近衛少将、安和元年(968年)従五位上、安和2年(969年)右近衛少将、天禄3年(972年)正五位下、天禄4年(973年)従四位下・右近衛中将、天元2年(979年)従四位上、永観2年(984年)正四位下と、冷泉,円融,花山朝の20年近くに亘って近衛次将を務め昇進を重ねた。
 寛和2年(986年)正月に春宮・懐仁親王の春宮権亮に任ぜられる。6月に寛和の変が起こり、花山天皇の出家に伴って懐仁親王が即位(一条天皇)すると、時中は春宮権亮の功労により正三位・参議に叙任されて公卿に列した。議政官として、大蔵卿や兵衛督を兼帯したほか、皇太后宮権大夫として皇太后・藤原詮子にも仕えた。
 その後も、正暦3年(992年)権中納言、長徳元年(995年)中納言、長徳2年(996年)大納言と昇進し、長保2年(1000年)従二位に至る。長保3年(1001年)8月に官職を辞任し、同年12月29日病により出家。翌30日に薨去。享年61。管絃・歌舞に秀でたといい、龍笛・和琴・郢曲などをしたという。

源 朝任 源 時叙

 一条朝の長保3年(1001年)元服する。加冠は春宮大夫・藤原道綱で、理髪は蔵人弁・藤原朝経が務めた。7,8人の公卿や10余人の殿上人が参会している。
 長保5年(1003年)従五位下に叙爵し、侍従次いで左衛門佐に任官する。寛弘3年(1006年)正月に従五位上・少納言に叙任され、3月9日に少納言として初めて外記政を行った。寛弘7年(1010年)五位蔵人に補任されるとともに、右近衛少将次いで左近衛権少将に任ぜられる。
 寛弘8年(1011年)6月に三条天皇が即位すると蔵人を去るが、同年10月に正五位下に叙せられ、寛弘9年(1012年)正月には改めて五位蔵人に再任されている。長和2年(1013年)従四位下、長和3年(1014年)右近衛中将、長和5年(1016年)従四位上次いで正四位下、長和6年(1017年)左近衛中将と三条朝から後一条朝初頭に書けて近衛次将を務めながら順調に昇進した。
 寛仁3年(1019年)蔵人頭に補され、治安3年(1023年)に参議に任ぜられ公卿に列す。万寿3年(1026年)右衛門督を、長元2年(1029年)には検非違使別当も兼帯した。同年従三位に昇叙された。    
 長元7年(1034年)9月16日薨去。享年46。歌人・大弐三位との交流が知られている。

 平安時代中期の天台宗の僧侶。俗名は源 時叙。寛和元年6月22日に昇殿を許される。その後、右近衛少将に任じられたが、天延元年(987年)頃、同年に出家した兄の源時通の後を追うかのように出家した。動機は不明であるが、当時、摂政・藤原兼家を牽制しうる政治力を有した左大臣・源雅信の子である時叙に将来性に問題があるとは考えにくく、『拾遺往生伝』,『元亨釈書』などが記す厭世観によるものとする可能性がある。『栄花物語』には相次ぐ息子の出家に憤る雅信の姿が描かれている。
 出家後は比叡山に登って覚忍に師事して永祚2年6月27日(990年)に覚忍から両部灌頂を受け、後に皇慶の年長の弟子となって寛弘9年(1012年)3月に胎蔵界・金剛界の灌頂を受けた。長和2年(1013年)に延暦寺と園城寺の対立を避ける形で大原に移り住み、勝林院を再興した。寂源は大原で浄土信仰・法華信仰の研鑽に励んで様々な苦行を行い、その度に毘沙門天が現れて寂源を守護したと伝えられている。また、義兄である藤原道長が度々寂源を尋ねて講説を受けたほか、赤染衛門ら多くの人々から崇敬を受けて出家前の官名より「大原近衛少将」とも称された。臨終においては磬を打って合殺し、十念成就の後に往生を遂げたと伝えられている。

源 済信 源 倫子

 平安時代中期の真言宗の僧。父は左大臣源雅信(敦実親王という説もある)。真言院僧正,北院大僧正,仁和寺僧正,観音院僧正とも称される。
 雅慶に師事して真言密教を学び、法相教学も兼習している。989年(永祚元年)寛朝に灌頂を受け、権律師に任じられた。以後、東大寺別当,勧修寺長吏,東寺長者法務を歴任している。1019年(寛仁3年)大僧正に至り翌1020年(寛仁4年)僧として初めての牛車宣旨をうけた。灌頂大会や修法の導師を多くつとめ、1027年(万寿4年)には藤原道長の葬儀における導師を勤めた。

 藤原道長の正室。雅信は倫子を后にと考えていたようだが、花山天皇は在位短くして退位、続く一条天皇も年齢が不釣合いであり、また母穆子の強い勧めもあって、永延元年(987年)に道長と結婚する。その当時倫子は24歳、道長は22歳であった。道長の実父であった摂政藤原兼家を牽制しえた唯一の公卿が一上の有資格者であった源雅信であり、この結婚が兼家と雅信の緊張緩和につながったこと、また朝廷の中心的地位にあり土御門邸をはじめとする財産を有した雅信の婿になることは、道長の政治的・経済的基盤の形成において大きな意味を有した。また、夫婦仲は円満であったらしく多くの子女、とりわけ娘に恵まれたことが夫・道長の後の幸運を支えることになった。
 永延2年(988年)に長女・彰子(後の一条天皇中宮・上東門院)を、正暦3年(992年)に長男・頼通を生む。同5年(994年)次女・妍子(後の三条天皇中宮)、長徳2年(996年)教通が誕生。同4年(998年)従三位になり、長保元年(999年)威子(後の後一条天皇中宮)を生む。寛弘4年(1007年)嬉子(後の東宮敦良親王妃、後冷泉天皇母)が誕生した後、病に冒される。
 寛弘5年(1008年)、敦成親王(後一条天皇)誕生により従一位。長和5年(1016年)道長と准三宮になり、万寿4年(1027年)道長が死去。また長女・彰子を除く娘三人にも相次いで先立たれ、長暦3年(1039年)に出家、清浄法と号した。その後菩提を弔って、天喜元年(1053年)に90歳で薨去。