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藤原武智麻呂 | 藤原豊成 |
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養老2年(718年)に式部卿。父没後の同5年(721年)には、中納言に昇進して藤原一族の中心的存在となる。長屋王失脚後の神亀6年(729年)に大納言、天平6年(734年)に右大臣就任。天平9年(737年)7月、当時流行していた天然痘に倒れ、臨終の床にて正一位左大臣を授けられる。弟の房前に比べると政治的活動は乏しいと言われているが、大学頭だった時代に大学制度の設立に尽くすなど文教行政面での活躍は特筆すべきものがある。彼自身も深い教養の持ち主であり、聖武天皇の皇太子時代には家庭教師役(春宮傅)に選ばれたこともあった。死後、天平宝字4年(760年)には太政大臣を追贈された。 |
天平9年(737年)における天然痘の猖獗によって父・武智麻呂をはじめ藤原四兄弟が急死すると、藤原氏の氏上(藤氏長者の前身)となり、急遽兵部卿に、続いて参議に任命されて官位も従五位上から従四位下まで昇進することとなった。こののち聖武朝で順調に昇進し、天平感宝元年(749年)に右大臣に叙任された。 |
中将姫 | |
中将姫誕生寺の三棟殿略縁起によれば、天平19年8月18日の早朝に生を受け、藤原豊成はその日のうちに「中将内侍」の官名の勅許を受けたことから中将姫と呼ばれるようになった。 |