<藤原氏>南家

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藤原仲麻呂(藤原恵美押勝) 藤原真先 藤原久須麻呂
Wikipedia「藤原仲麻呂」参照。

 天平宝字2年(758年)孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)。仲麻呂は仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。真先も従五位上兵部大輔兼大和守に進む。
 天平宝字4年(760年)仲麻呂は太師(太政大臣)と翌年真先は従四位上兼美濃飛騨信濃按察使となる。天平宝字6年(762年)2月、真先は弟の訓儒麻呂,朝狩とともに参議に任じられる。同年12月、正四位上大宰帥になる。
 孝謙天皇が弓削道鏡を寵愛して、淳仁天皇から政権を奪ったことにより、仲麻呂は危機感を強めた。天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は謀反を起こして平城京を脱出。真先も一族とともに父に従い近江国へ入る。仲麻呂一族は三尾の古城に拠って官軍と戦うが敗れる。9月18日、真先は官軍によって琵琶湖畔で一族とともに斬られた(藤原仲麻呂の乱)。
 かつては名前を「真光」とすることが多かったが、近年の研究の結果「真先」であったことが確定している。

 天平宝字2年(758年)1月、東海東山道問民苦使となる。仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられると訓儒麻呂も従五位下式部少輔に昇る。天平宝字3年(759年)美濃守に任じられる。
 天平宝字4年(760年)仲麻呂は太師(太政大臣)となる。天平宝字6年(762年)12月、訓儒麻呂は兄弟の真先,朝狩とともに参議に任じられる。
 位人臣を極め、栄耀栄華を誇った仲麻呂一族だが、孝謙天皇が淳仁天皇から政権を奪って上皇として道鏡への寵愛を深めると、仲麻呂は危機感を持つようになり、天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は軍権を手にして反乱を計画するが、密告により発覚。9月11日、孝謙上皇は先手を打って少納言山村王を中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた。この報に接した仲麻呂は中宮院に侍していた訓儒麻呂に奪回を命じる。訓儒麻呂は手勢を率いて山村王の帰路を襲い駅鈴を奪う。孝謙上皇は直ちに授刀衛の少尉坂上苅田麻呂と将曹牡鹿嶋足を出動させる。訓儒麻呂の手勢と苅田麻呂たちの軍勢とが交戦し、訓儒麻呂は射殺された。その後、仲麻呂一族は滅亡した。

藤原刷雄 藤原仁智

天平勝宝4年(752年)遣唐使の留学生として藤原清河に随行、渡航前に無位から従五位下に昇叙される。同6年4月頃帰国したと推察される。天平宝字2年(758年)には父とともに「藤原恵美」朝臣の姓を賜与された。
 天平宝字8年(764年)に恵美押勝の乱が起きて一族が悉く処刑された中で、刷雄本人は若い時から禅行を修めていたとして死を免れ、隠岐国に配流された。
 宝亀3年(772年)に赦免されて本位(従五位下)に復し官界に復帰、同年姓も藤原朝臣に戻される。宝亀5年(774年)但馬介、次いで但馬守に任ぜられる。宝亀9年(778年)従五位上に叙せられ、同年刑部大判事。のち、治部大輔・上総守・大学頭・右大舎人頭を歴任後、延暦10年(791年)に陰陽頭に任じられた。
 『尊卑分脈』において、刷雄の兄弟とされている藤原薩雄を刷雄と同一人物とする説がある。

 仁智以降は刊本の系図類には見えず、光房以前の世系は信頼性が乏しい。
藤原辛加知 藤原徳一

天平宝字8年(764年)1月の人事で辛加知は越前守に任じられる。辛加知には変事に備え愛発関を固めることが求められた。同年9月、仲麻呂は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使になり軍権を掌握して反乱を計画。仲麻呂は密かに諸国の兵の動員を命じるが、密告により発覚してしまう。9月11日、孝謙上皇側に先手を打たれた仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出して勢力地盤の近江国に向かう。孝謙上皇は吉備真備を召して仲麻呂誅伐を命じる。
 仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智の率いる官軍に先回りさせて、勢多橋を焼いて近江国衙への道を断ってしまう。仲麻呂は琵琶湖西岸を北進して辛加知のいる越前国へ向かう。佐伯伊多智は官軍を率いて越前国衙へ馳せ向かい、いまだ事変を知らぬ辛加知を斬った。官軍は授刀衛物部広成を愛発関に配して固めさせ、仲麻呂を迎え撃つ。仲麻呂軍の先発隊精兵数十人は愛発関で撃退された。辛加知の死を知らない仲麻呂は愛発関を避けて船で琵琶湖東岸へ渡り越前に入ろうとするが、湖が荒れたためやむなく塩津から上陸して愛発関の突破を試みる。辛加知を斬った佐伯伊多智が防戦して、仲麻呂軍を撃退した。仲麻呂軍は近江国高島郡三尾の古城に退いて抵抗するが、海陸から官軍に攻められて遂に敗れた。仲麻呂の一族はことごとく殺され滅亡した。

 奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。徳溢、得一とも書く。生没年には諸説があるが、「南都高僧伝」には天平勝宝元年(749年)出生、天長元年7月21日(824年8月23日)没と記されている。
 初め東大寺で修円らから法相教学を学んだとされ、20歳頃に東国へ下った。弘仁6年(815年)空海から密教経典などの書写・布教を依頼されるが、これに対して真言密教への疑義を記した11か条の「真言宗未決文」を空海に送っている。また、天台教学に対しては「仏性抄」を皮切りに批判を加え、弘仁8年(817年)年頃から最澄との間で一大仏教論争である三一権実諍論を展開した。この間、陸奥南部~常陸にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓とされる五輪塔が残されている。