<藤原氏>南家

F002:藤原武智麻呂  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原継縄 F003:藤原継縄

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藤原継縄 藤原乙叡

 天平宝字7年(763年)37歳で従五位下に叙せられる。翌年正月に信濃守に任官した後、9月に藤原仲麻呂の乱が起こると、大宰員外帥に左遷されていた父・豊成が右大臣に復すると同時に、継縄は越前守に任じられた。藤原仲麻呂は北陸道への逃亡を企てており、越前は軍事的に重要な場所であった点から、軍事目的の任命であったと考えられる。

 道鏡政権に入ると急速に昇進、天平神護元年(765年)従四位下に昇叙、翌天平神護2年(766年)には参議として公卿に列す傍ら、右大弁,外衛大将と文武の要職を歴任した。

 光仁天皇即位後も順調に昇進し、宝亀11年(780年)中納言昇進後に、陸奥国で蝦夷の族長・伊治呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害すると(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく征東大使に任ぜられた。しかし継縄は準備不足などを理由にして京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。

 桓武天皇即位後、中務卿・左京大夫を歴任し、延暦2年(783年)大納言に任ぜられ、従兄弟の右大臣・藤原是公とともに、藤原南家の公卿で太政官の首班・次席を占めた。延暦4年(785年)の藤原種継暗殺や、桓武の皇后藤原乙牟漏,夫人旅子の相次ぐ死により藤原式家の勢力が衰えたためか昇進も順調で、大宰帥,皇太子傅,中衛大将を経て、延暦8年(789年)藤原是公の死去により太政官の筆頭の地位に就き、延暦9年(790年)右大臣に至った。

 継縄が太政官筆頭の時期の重要事項として、延暦11年(792年)全国の兵士を廃止して健児を置いたことがあげられる。延暦13年(794年)の平安京遷都に深く関わったとする説もある。『続日本紀』の編纂者としても挙げられているが、彼の生前には一部分しか出来上がっておらず、実際に関与した部分は少なかったと見られている。

 夫人が百済系渡来氏族出身(百済王氏)であったためか、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母に持つ、桓武天皇からの個人的信頼が厚かった政治家の一人であり、天皇が継縄の邸に訪れることもしばしばであった。

 延暦3年(784年)従五位下・侍従に叙任し、少納言,中衛少将,兵部大輔,右兵衛督などを歴任する。藤原南家の嫡流であったことに加え、母・百済王明信が桓武天皇の寵姫となったために、延暦年間前半に急速に昇進し、延暦10年(791年)従四位下に昇叙、延暦13年(794年)には参議に任ぜられ34歳にして早くも公卿に列した。

 のち、議政官として右衛士督,中衛大将,兵部卿など主に武官を歴任し、延暦19年(800年)従三位、延暦22年(803年)権中納言、延暦25年(806年)中納言に至る。

 しかし、平城朝に入ると、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座して解官された。これは、天皇が皇太子であったころの宴席で、乙叡は近くに座り酒を吐くという無礼を働いたことがあり、天皇がこれを恨んでいたことが原因とされる。乙叡は赦されて自邸に戻ったのち自らの罪がないことを知り、これを憂いたまま死去したという。大同3年(808年)6月3日死去。享年48。性格は頑なで驕り高ぶるところがあった。また妾を好み、山水の妙地に多数の別荘を建て、女性を伴って連夜宿泊することもあったという。

藤原保則 藤原清貫

 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石とうたわれた。

 斉衡2年(855年)治部少丞に任官。その後、民部少丞,兵部少丞,兵部大丞,式部少丞を歴任。貞観2年(860年)伊勢斎内親王行禊の後次第司判官となる。

 貞観8年(866年)従五位下・備中権守に叙任され、飢饉と悪政によって疲弊が甚だしかった備中国に赴任した保則は貧者を救い、勧農を大いにする善政を施して立て直した。その後、備中守,備前権守を歴任して、その治績を大いにうたわれた。保則が備前国にあったとき、他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話が伝わっている。保則が任を終えて帰京する際、人々が道を遮り泣いて別れを惜しんだという。

 貞観18年(876年)保則は京に戻り、右衛門権佐兼検非違使佐となり都の治安に手腕を発揮し、民部大輔となり従五位上に進む。元慶元年(877年)頃には右中弁に任じられている。

 元慶2年(878年)正五位下・出羽権守に叙任。当時、出羽国では夷俘が反乱を起こして、官軍が大敗する事件が起きていた。保則は地方官としての手腕を期待されて出羽国の受領に任じられたのである。出羽国へ着任した保則は兵を配して軍事的措置を講じる一方で、それまでの苛政を改めて政府の備蓄米を民に供して夷俘の懐柔を図った。保則の善政を聞いて反乱を起こしていた夷俘が次々に投降を願い出、保則はこれを許した。追討を命じる朝廷に対して保則は寛政により夷俘を鎮撫することこそ上策であると意見し、朝廷はこれを容れ、反乱は武力を用いることなく終息した(元慶の乱)。

 元慶6年(882年)讃岐権守だった保則は従四位下に昇叙される。仁和3年(887年)伊予守に任じられたが辞退し、大宰大弐に任じられ、従四位上に叙される。宇多天皇は保則の力量を高く評価し、寛平3年(891年)左大弁、次いで参議,近江権守,民部卿に任じられる。寛平7年(895年)薨去。死の間際に比叡山に入り、そこで念仏を唱えながら亡くなったとされている。

 三善清行はその功績を称えて『藤原保則伝』を著した。

 保則の父である藤原貞雄を実父とする異説もある。醍醐天皇に仕えて藤原時平政権に参加、延喜式編纂や昌泰の変(菅原道真の追放)などに関わったとされる。宇佐八幡宮への使者に任じられた折には、道真を見舞うとして大宰府を訪れ、帰京後に道真の動向を天皇や時平に報告している。

 延長8年6月26日、正三位権大納言であった清貫は宮中の清涼殿において落雷に遭遇する。直撃を受けた清貫は衣服を焼損し胸を裂かれた状態で陽明門から自宅に搬出されたものの、即死状態であったという。人々は清貫が菅原道真の追放に関与したために、その怨霊によって報いを受けたと噂したと言う。

藤原文元

 天慶2年(939年)12月、藤原純友の命により、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃し、子高の鼻を削いで捕らえ、妻を奪い、子供らを殺した。