牛屋大臣と称された。天平宝字5年(761年)正六位上から従五位下に叙される。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後、播磨守,山背守を歴任する。称徳朝では俄に昇進し、天平神護元年(765年)従五位上・左衛士督に叙任、翌天平神護2年(766年)には従四位上まで昇叙された。また、天平神護元年(765年)に黒麻呂から是公に改名している。 光仁朝に入っても順調に昇進を続け、宝亀5年(774年)参議に任ぜられ公卿に列した。宝亀10年(779年)従三位。この間、左衛士督,左大弁など文武の要職を歴任するとともに、皇太子・山部親王(のち桓武天皇)の春宮大夫も務めた。 桓武朝に入ると光仁朝以来の大官であった、藤原魚名(左大臣),大中臣清麻呂(右大臣),石上宅嗣(大納言),藤原田麻呂(右大臣)らが相次いで死去したこともあり、急速に昇進を果たすことになる。天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、同年正三位・中納言に叙任、翌天応2年(782年)大納言、延暦2年(783年)には右大臣に任じられ、太政官の筆頭の地位を占めた。延暦8年(789年)従二位右大臣兼中衛大将で没し、従一位が追贈された。享年63。
|
延暦2年(783年)従五位下・美作守に叙任すると、延暦年間の前半に急速に昇進し、延暦9年(790年)38歳にして参議に任ぜられ公卿に列す。のち大蔵卿,近衛大将,大宰権帥と要職を歴任し、延暦23年(804年)正三位に至る。 延暦25年(806年)平城天皇の即位後、大納言に昇進。桓武朝で競うように昇進していた藤原北家の藤原内麻呂は右大臣となったためにその後塵を拝するが、雄友は太政官の次席の地位にまで至った。しかしながら、翌大同2年(806年)天皇の弟で、雄友の甥(妹・吉子の子)にあたる伊予親王に対して藤原宗成が謀反を勧めているという情報を得たことから、雄友は右大臣・藤原内麻呂に報告するが、結局、吉子・伊予親王母子は逮捕・幽閉され、まもなく自殺してしまう。雄友も伯父として連座し、伊予国への流罪となった(伊予親王の変)。 嵯峨朝に入り、薬子の変発生中の弘仁元年(810年)9月10日に罪を赦されて本位(正三位)に復され、弾正尹に任ぜられる。翌弘仁2年(811年)宮内卿に任官するが、まもなく死去。享年59。即日大納言の官職を贈られた。 性格は温和でみだりに喜怒を表に出すことはなかった。また、容姿や振る舞いに見るべきものがあった。発声も清々しくはっきりしており、賀正の儀における宣命の読み上げに際しては、推されて師匠役となったという。
|