崇神7年8月7日、しばしば災害のおこることを憂いていた天皇に、穂積臣の遠祖・大水口宿禰ら三人が奏上するに、各人の夢に貴人が現われ、大田田根子をもって大物主大神の祭主とし、市磯長尾市をもって倭大国魂神の祭主とすれば天下は太平となるだろうと告げられたことを述べた。大田田根子を探し求めたところ、その父は大物主であると答えたので、天皇は「朕、栄楽えむとするかな」と喜び、物部連の祖である伊香色雄を神班物者(神に捧げ物を分つ役)に任じた。 また、同7年11月13日、伊香色雄に命じて物部の八十手に作らせた祭神の物(幣帛)を以って、大物主大神と倭大国魂神を祭り、その後八十万の群神を祭ったところ、疫病は止んで国内は鎮まったという。『記』崇神段には、伊迦賀色許男に命じて天の八十平瓮を作り天神地祇の社を定めたとする記事がある。 開化天皇の時代に大臣になり、崇神天皇の時代、神物を班たしめ、天社・国社を定め、物部八十手の作った祭神の供物をもって、八十万の群神を祭った。そのとき布都大神を祀る社を石上邑に遷し、天璽瑞宝も合わせて祀って、この総称である「石上大神」を氏神としたという。 天皇本紀にも、開化8年2月に大臣に任じられたことがみえる。
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系譜に関して『日本書紀』『古事記』に記載はない。『新撰姓氏録』では、伊香賀色雄の子とも饒速日命の六世孫とも伝える。一方、『先代旧事本紀』「天孫本紀」では出石心大臣命(饒速日尊三世孫)の子と記され、系譜に異同がある。子に関して史書では明らかでないが、穂積氏系譜では『古事記』に穂積氏祖として見える建忍山垂根を子に挙げる。 『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条によると、大水口宿禰は倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・伊勢麻績君とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した。 また、同書垂仁天皇25年3月条では「一云」の中で、倭大神が大水口宿禰に神憑り、倭大神を祀ることを告げたことが記されている。
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