<神皇系氏族>天神系

A233:伊香色雄命  伊香色雄命 ― 穂積真津 HZ01:穂積真津

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穂積真津 穂積押山 穂積磐弓
 伝承では、饒速日命の後裔・大木別垂根の子で、穂積臣の姓を賜って穂積氏の始祖になったとされる。長男の阿米の子孫は有力豪族・穂積氏として続き、次男の采女宮手は采女氏の祖となった。

 『日本書紀』継体天皇6年(512年?)4月6日条によると、穗積押山は百済に遣わされ、筑紫国の馬40頭を贈った。
 同年12月条では、百済が使者を派遣して朝貢し任那の娑陀,牟婁などの4県割譲を要求した際、押山は百済に近く日本から遠いことから是とする旨を上奏し、大伴金村に賛同を受けた。そして任那4県は割譲されたが、のちに大伴金村と押山は百済から賂を受けたとの流言が立ったという。
  継体天皇7年(513年?)6月条では、百済が五経博士の段楊爾を献上し、伴跛国に奪われた己汶の地の奪回を求めた際に、姐弥文貴将軍とそれに副えて押山が日本に派遣されている。
  また継体天皇23年(529年?)3月条によると、下哆唎国守の押山は、百済が朝貢の津路を加羅の多沙津に変更したがっている旨を奏上した。このときに朝廷は加羅王の反対を押して多沙を与えたため、加羅は新羅と結び日本を恨むこととなったという。
  上記の記事において、穂積押山はヤマト王権の執政官としての活動が見られる。一方、百済の立場を代弁する存在として記述されることから、押山を倭系百済官僚とし、百済の地方官として任命されていたと見る説がある。

 欽明16年7月4日、蘇我稲目とともに吉備国の五郡に赴き、白猪屯倉を設置した。
穂積祖足 穂積 咋 穂積百足
 祖足は父とともに推古天皇に出仕した。推古天皇8 年(600年)に任那日本府救援のために境部摩理勢が征新羅大将軍に任じられると、祖足は征新羅副将軍に任ぜられ、約1万の軍勢を率いて新羅に出征した(新羅征討計画)。結果、五つの城を攻め落として新羅を降伏させ、さらに多多羅,素奈羅,弗知鬼,委陀,南迦羅,阿羅々の6つの城を攻略して倭国への朝貢を約束させた。

 大化元年(645年)に初の東国国司として派遣される。同年9月19日に地方の国司に対して善政を行うよう孝徳天皇の勅命が出されたが、大化2年(646年)3月、任国で咋が行った不正が報告されている。しかし大赦によって大きな処分は免れている。
 大化5年(650年)3月には天皇の命を受け、謀反の嫌疑がかかった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂にその真意を問い質した。その後、石川麻呂の討伐軍として蘇我日向とともに出兵、逃亡先の山田寺を軍兵をひきいて包囲し、すでに妻子らとともに自殺していた石川麻呂の首を斬らせた。

 壬申の乱の際、近江宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための軍を興させた。このとき倭京(飛鳥京)への使者にたったのが、穂積百足とその弟穂積五百枝,物部日向であった。飛鳥京は留守司として高坂王がおり、ともに軍の編成に携わった。その陣営は飛鳥寺の西の槻の下にあった。
  しかしこのとき、倭では大伴吹負が大海人皇子のために数十人の同志を得て戦う準備を進めていた。吹負は別の留守司である坂上熊毛と相談して、吹負が外から高市皇子を名乗って近づき、熊毛が内応するという計画を立てた。高市皇子はその頃美濃国にあって大海人皇子のために軍を編成していた。それが早くも倭に現れたと虚報を流そうというのである。
  6月29日、吹負らは飛鳥寺の西の槻の下の陣営に入り、内応を得て軍の指揮権を乗っ取った。そのとき穂積百足は小墾田の兵庫(武器庫)にあって、武器を近江に運ばせていた。吹負は高市皇子の命だと言って百足を呼び寄せた。百足は馬に乗ってゆっくり近づき、飛鳥寺の西の槻の下に来た。ある人に「馬から下りよ」と言われたが、下りる動作も遅かった。襟をつかまれて引きずりおろされ、一本の矢を射当てられ、刀で斬り殺された。かくして倭京の軍は大海人皇子の側に寝返った。

穂積五百枝 穂積虫麻呂 穂積 老

 壬申の年に大海人皇子が挙兵したことを知った近江宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための軍を興させた。このとき倭京への使者にたったのが、穂積百足、穂積五百枝、物部日向であった。百足は五百枝の兄である。飛鳥京には留守司として高坂王がおり、3人は王とともに軍の編成を進めた。その陣営は飛鳥寺の西の槻の下にあった。
  しかしこのとき、倭では大伴吹負が大海人皇子のために数十人の同志を得て、戦う準備を進めていた。吹負は別の留守司である坂上熊毛と相談して、吹負が外から高市皇子を名乗って近づき、熊毛が内応するという計画を立てた。高市皇子はその頃美濃国にあって大海人皇子のために軍を編成していた。それが早くも大和にまで現れたと虚報を流そうというのである。
  6月29日、吹負らは飛鳥寺の西の槻の下の陣営に入り、内応を得て軍の指揮権を乗っ取った。その場にいた五百枝と日向は何もできなかったらしい。別の場所にいた百足は呼び寄せられて殺され、五百枝と日向は監禁された。二人はしばらくしてから赦されて、大海人皇子側の軍に加わった。

 虫麻呂は天武13年(684年)11月に、一族の稲足、濃美麻呂らとともに八色の姓制定に伴い新たに穂積朝臣姓を賜った。朱鳥元年(686年)正月には新羅使・金智祥を饗するため筑紫国に遣わされた。このときの冠位は直広肆であった。同年9月29日には、天武天皇の殯庭に諸国司の事を奏上した。

 大宝3年(703年)に山陽道巡察使を務める。
 和銅2年(709年)従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵。和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍・大伴旅人のもと副将軍として、騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。元明朝から元正朝前半にかけて順調に昇進した。この間の霊亀3年(717年)3月に同族(物部氏族)の左大臣・石上麻呂が薨去した際、五位以上の官人を代表して誄を執行している。
 養老6年(722年)に元正天皇を非難し不敬罪を問われ斬刑となるところを、皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の奏上で減刑されて佐渡島への流罪となり失脚した。
 天平12年(740年)に聖武天皇が発した大赦により赦免されて入京を許され、のち大蔵大輔に任ぜられる。天平16年(744年)の難波京へ遷都の際、恭仁京の留守官を任された。天平18年(746年)正月に左大臣橘諸兄と共に元正上皇の中宮西院に奉仕し、肆宴に参席。天平勝宝元年(749年)8月26日卒去。

穂積忍麻呂 采女摩礼志 采女枚夫
 父の濃美麻呂の代に紀伊国熊野に下向して熊野速玉大社の神職となり、忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられた。以降、忍麻呂の子孫である紀州熊野系の穂積氏が熊野速玉大社の禰宜を世襲した。

 『書紀』巻第二十三によると、推古天皇36年9月(628年)、天皇の葬礼が終わり、大臣蘇我蝦夷は阿倍内麻呂と相談し、田村皇子と山背大兄王とどちらを皇嗣とすべきか、という会合を開いたが、大伴鯨は亡き天皇は遺言ではっきりと田村皇子を指定したと発言した。これに賛同したのは摩礼志のほか、高向宇摩,中臣弥気,難波吉士身刺の4名であった。
しかし、許勢大麻呂,佐伯東人,紀塩手の3人は山背大兄王を推挙し、蘇我倉麻呂は態度を保留した。
 その後、山背大兄王は斑鳩宮でこの会合のことを知り、愕然として、臣下のものを遣わし、蝦夷の真意を尋ねようとした。蝦夷は直接これに答えることができず、その場に出席していた阿倍内麻呂,大伴鯨,摩礼志,紀塩手ほか8名と、河辺禰受を呼び、山背大兄王の言葉をつぶさに語った上で「臣下の自分が皇嗣を決められるすべもない。ただ天皇の遺詔を伝えるだけで、その遺詔通りならば田村皇子が即位すべきだと群臣も述べている。私の考えは直接お目にかかった際に語りましょう」という伝言を依頼した。
 彼らは蝦夷の言葉を山背大兄王の側近の三国王と桜井臣に伝え、「大臣たちの語っているところによると、この遺詔は天皇のお側近くに仕えている女王や采女もきいていることであり、王もご存じの筈です」とも答えた。
ここで重要なのは、この言葉を述べている面々に、采女を管掌する立場にある、摩礼志が参加していることである。
 王は「自分の聞いたところと少し違う」と言ったが、「自分には天下をむさぼる気はない。また、叔父の遣わした群卿たちはいかめしい矛のように中を取り持つ人たちなので、自分の気持ちを叔父の蝦夷に伝えて欲しい」と述べた。その後、蘇我氏の一族で、山背大兄王擁立派の境部摩理勢が蝦夷と争い敗死した。かくして、皇位は田村皇子が継承することになった。

 采女の統括を担当した伴造氏族。もと臣姓であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により朝臣姓に改姓している。
 大宝4年(704年)に従六位上から三階昇叙され従五位下に叙爵。のち従五位上に叙せられるなど文武朝で順調に昇進し、慶雲4年(707年)文武天皇の崩御の際には御装司を務めている。
 元明朝に入り、和銅2年(709年)に造雑物法用司が初めて置かれると、多治比三宅麻呂らと共にこれに任ぜられた。治部少輔を経て、和銅3年(710年)に近江守に転じ、和銅4年(711年)正五位下に至る。
『懐風藻』に漢詩作品が残っている。

采女竹羅

 『書紀』巻第二十九によると、天武天皇10年7月、遣新羅大使に任ぜられ、小使の当麻楯らと共に新羅に派遣された。9月に拝朝し、出発の挨拶をした。同じ日に佐伯広足が遣高句麗使に任命され、同月に拝朝している。
 その後、いつ新羅から帰国したのかは不明だが、同13年2月には信濃遷都の調査のために信濃国に派遣された。同じ日に広瀬王・大伴安麻呂及び判官・録事・陰陽師・工匠らが派遣され、畿内に都をつくるべき地を視察している。閏4月に三野王(美努王)らは信濃国の図を進上しており、翌年10月(685年)には、軽部足瀬・高田新家・荒田尾麻呂らは信濃に行宮を建造している。
 同13年(684年)八色の姓の制定により、采女臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓に改姓している。
 翌年9月(685年)、宮処王・難波王・竹田王・三国友足・県犬養大伴・大伴御行 ・坂合部磐積・多品治 ・中臣大島と共に、天皇から自身の衣と袴とを下賜されている。天皇と博戯(双六などの賭け事)をして遊んだのちの話である。翌日、皇太子以下諸王48人に羆の皮と山羊の皮が授けられている。
朱鳥元年9月9日(686年)、天皇は崩御され、殯の宮が建てられた。竹羅は内命婦の誄をした。この時の位階は直大肆。
 『寧楽遺文』下巻によると、持統天皇3年(689年)12月25日に「采女氏塋域碑」が建立されたという。碑には「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大弐采女竹良卿」と記され、そこは形浦山地4000代(約8町,8ha)を造墓所として朝廷に請うた地で、他人がそこで木を切ったり、汚したりすることを禁じる、とある。この碑は河内国石川郡春日村帷子山にあり、同村妙見寺に移されたというが、所在不明となっている。