<神皇系氏族>天神系

HZ01:穂積真津  穂積真津 ― 鈴木基行 SZ01:鈴木基行

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鈴木基行 鈴木重康 鈴木重家
 熊野速玉大社一禰宜の穂積国興の次男、または三男。昌泰3年(900年)の正月に散位外従五位下に叙爵され、延長4年5月21日(926年7月3日)に卒去。享年62。兄には禰宜職を継いだ穂積基雄(従五位下)のほか、榎本真俊と宇井基成がいたとする伝承もあり、それぞれ榎本氏,宇井氏の祖という。

 通称は鈴木庄司。官位は越中守とされる。
 鈴木氏(穂積氏)は紀伊国熊野地方を本拠としていたが、重康の代に同じ紀伊国内の名草郡藤白浦に居を構えて住み、以降は藤白神社の社家として続いたと云われる。康平8年(1065年)1月10日に62歳で没した。

 紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主。『義経記』には義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか、『源平盛衰記』にも義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる。
 重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり、『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ、治承・寿永の乱では義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた。
 しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意し、文治5年(1189年)に奥州に向かった。その奥州下りの途中に一度捕らえられて、頼朝の前に引かれた時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し功を論じた。
 重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕いわずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている。
 『義経記』によると、義経主従が奥州高館の衣川館で藤原泰衡の討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなか、重家は馬の足を踏み外して痛めながらも熊野より到着し、源義経より佐藤兄弟(佐藤継信,佐藤忠信)の残した鎧を賜った。文治5年(1189年)閏4月30日、泰衡は500騎の兵をもって、武蔵坊弁慶,重家,重清らわずか10数騎の義経主従を襲撃した。弁慶が「はやせよ、殿ばら。東夷の奴ばらに我らが優美の道を思い知らそう」というと、すぐに重家・重清兄弟が鼓と笛ではやしたて、弁慶はうたいながら舞った。その後、重家,重清,弁慶は馬を並べて太刀を抜き、大声で喚きながら馬を駆けたために敵は秋風が木の葉を散らすように元の陣に逃げていったといわれる。
 重家は、逃げていく泰衡の郎党・照井太郎に、敵に背を見せて逃げずに止まるよう声をかけ、戻ってきた照井太郎を斬り負かして右肩を斬りつけ、照井太郎を引き下がらせた。重家はその他にも左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し、7,8人に手傷を負わせたところで自分も深傷を受け、「亀井六郎犬死にするな、重家は今はかうぞ」を最後の言葉に太刀で自らの腹を掻き切って自害したと伝わる。享年33歳。重清も「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23、弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方の奴ばらは未だ知らじ。初めて物見せん」と言いながら大勢の中に割って入り、兄の後を追って自害し果てた。

鈴木重染 亀井重清
 重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため鈴木山重染寺を建てたと云われる。

 『吾妻鏡』文治5年(1185年)5月7日条に頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証として鎌倉へ起請文を送った使者として亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって頼朝の怒りを深める原因になった。
 『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であったという。
 『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたとされる。鈴木は紀伊国熊野三党の一つで、海南市藤白に鈴木屋敷と伝えられる所がある。

 

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