<神皇系氏族>天神系

A233:伊香色雄命  伊香色雄命 ― 物部多伊古 MB02:物部多伊古

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宇久盛定 五島純玄

 永正4年(1507)、宇久囲は玉之浦納の反乱により殺されてしまった。子の三郎は乳母に抱かれて平戸に逃れ、平戸松浦弘定を頼った。以後、弘定のもとで成長し、弘定のあとを継いだ興信の援助を受けた。そして、大永元年(1521)、奈留某より三郎のもとに失地回復の絶好の機会という密書が送られてきた。
 三郎改め盛定は、松浦興信より兵船を借り、旧臣を集め玉之浦を攻め、ついに納を自刃させたのであった。盛定は平戸に潜居すること15年目にして旧領を回復した。戦勝後、盛定は群臣に論功行賞を行い、大永6年には新たに江川城を築いた。盛定は平戸松浦興信の助けで福江島の奈留・大浜・貞方・玉之浦氏らを支配下におき、福江島の田尾、中通島の青方・奈摩らの諸領主層を服属させていった。そして、これらの領主層を一定の職制に整備して、浦中五人衆、六名字、その他福江四人衆、上三頭、下三頭といった家臣団が成立した。宇久盛定は五島の頭領として、押しも押されもせぬ存在となった。天文9年(1540)、明人王直が深江に入ると盛定は喜んで通商を許し、福江の一角に住まわせた。唐人町に現存する「六角井」はその遺構である。

 天正15年(1587)、豊臣秀吉が大友宗麟の要請をいれて九州征伐を行ったとき、純玄は豊後府内に赴いて秀吉に謁した。秀吉は五島が異国船通航の要地であり、純玄に自国警護を命じて五島に帰島させている。
 天下統一を果たした秀吉は朝鮮侵攻を企図し、文禄元年(1592)、第一次朝鮮出兵が開始された。出陣命令を受けた純玄は七百余人の兵を率いて朝鮮に渡海、そのとき宇久姓から五島に名字を改めている。朝鮮に渡った五島純玄は小西行長に属して、その先手となって活躍したが、同3年、病を得て陣中で病没してしまった。享年33歳、子はなかった。

五島玄雅 五島盛利

 純玄の遺書には叔父にあたる玄雅を家督にとあり、純玄の重臣である平田甚吉・青方善助らは純玄の遺書を小西行長に献じた。しかし、玄雅は純堯のあとの家督を純玄と争った過去もあって、家督継承を固辞した。紆余曲折のすえに玄雅が21代の宇久家当主となった。
 慶長元年(1596)、帰国した玄雅は捕鯨業を行い、敬虔なキリシタンとして秀吉の二十六人聖人の殉教のあとも宣教師を城内に留めている。慶長5年、関ヶ原の合戦が起こると、小西行長らと西軍に属したが、途中で東軍に転向し本領を保った。その後、徳川幕府の時代になると、家康から駿府によばれキリスト教を棄教するに至った。以後、玄雅は五島には帰っていない。

 玄雅が没すると、さきの家督相続のときに反対派宥和策として養子にしていた盛利が五島氏を継いだ。のち、それが原因となって「大浜主水事件」が起こった。主水は玄雅の実子角右衛門の養子で、盛利の後継問題と失政を幕府に訴えたのである。しかし、容れられず、主水一味は盛利に排除処刑されてしまった。かくして、盛利の系が近世大名として明治維新まで続く。
宇久家盛 宇久 勝

 宇久氏は桓武平氏の子孫とする『平姓五島系譜』と、清和源氏武田氏流とする『源姓五島家系図』の二つが伝えられている。桓武平氏説は、平忠盛の四男家盛を祖とするものである。家盛は清盛の弟にあたる人物で、久安六年(1150)に京都を去って行方不明となり、平家が壇の浦で滅亡したのちの文治三年(1187)に宇久島に移ってきたという。
 一方、源姓の方は、武田兵衛尉有義の子武田次郎信弘を始祖としている。すなわち、武田信弘は文治3年、平戸黒髪山麓に居を構え、のちに宇久島に渡って城を築き、やがて宇久久次郎家盛と号した。鎌倉幕府に忠誠を尽くした功により、肥前守に叙せられ、代々五島を領するようになり、五島宇久を称するようになったと伝えている。
 平姓、源姓のいずれが正しいのかは知るべくもないが、家盛なる人物が宇久氏の祖となり、建久元年(1190)に、扇が家盛のあとを継いだ。扇は女性で、源盛を婿養子に迎え、盛との間に宇久三郎次郎太をもうけた。

 覚には男子がなかったため、阿野対馬守の子松熊丸を養子に迎え「父子起請文」を結んだことが『青方文書』に残っている。岐宿に居を移した覚は嘉禎2年(1388)に死去し、養子の松熊丸が家督を継ぐことになったが、それに反対する者が出た。そのとき、「父子起請文」がものをいって応永20年(1413)、一揆の会合によって松熊丸を取立ることに決まった。こうして、松熊丸が宇久氏の家督を継ぎ勝を称したのである。もっとも、松熊丸は覚が死んで間もないときに家督を継承しており、応永20年に一揆契諾によってその地位が確認されたということである。宇久氏はこの勝の代に岐宿から深江に移住し、辰の口城を築き本拠とした。

 

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