<神皇系氏族>天神系

A233:伊香色雄命  伊香色雄命 ― 物部十市根 MB04:物部十市根

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物部十市根 物部胆咋

 『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物だが『古事記』に記載はない。
『日本書紀』垂仁天皇25年2月8日条では、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・武日(大伴連祖)らとともに「大夫」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。
同書垂仁天皇26年8月3日条では、天皇の勅で出雲に出向き、出雲の神宝の検校を行なっている。また垂仁天皇87年2月5日条では、垂仁天皇皇子の五十瓊敷命が妹の大中姫命に石上神宮の神宝の管掌を頼んだが、大中姫命は辞し十千根に治めさせたという(物部連による石上神宮の神宝管掌の起源譚)。
 そのほか『先代旧事本紀』「天皇本紀」によると、垂仁天皇81年2月1日に五大夫の1人の十市根命に対して「物部連公」の賜姓があり、さらに大連に任じられたという。

 「物部」の「もの」とは、「武士」(もののふ)から来ているという説のほかに、神秘的なもの、精霊などの魂を示している、という説がある。
 『先代旧事本紀』「天孫本紀」に、物部十千根大連の子として「胆咋宿禰」があり、成務天皇の時に大臣になり石上神宮に仕えた、とある。また同時代に胆咋宿禰が三川穂国造の美己止直妹伊佐姫を娶ったという。
 『日本書紀』巻第八によると、仲哀天皇の崩御に際し、皇后の気長足姫尊(後の神功皇后)と大臣の武内宿禰は天皇の喪を秘匿した。その上で、皇后は、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連にも、「天皇がなくなったことを百姓(=人民)に知らせてはならない」と告げた。この年、新羅の役のため、天皇を埋葬することができなかったという。

物部伊莒弗 物部 目
 履中・反正天皇の時代に大連になり、石上神宮を奉斎したとされる。また『日本書紀』には、履中天皇のつくった磐余の都において、平群木菟宿禰・蘇我満智宿禰・円大使主とともに国事を執ったとある。『公卿補任』にも履中朝において執政に任官したとある。

 『日本書紀』によれば、雄略天皇の即位により大連となる。雄略天皇元年、采女の童女君が雄略天皇の娘・春日大娘皇女を生んだ際、天皇は一晩召しただけで童女君が妊娠したため、春日大娘皇女を自分の子と認めないでいたが、目は「妊娠しやすい人は一晩でも妊娠する場合がある」とそれを諫め、春日大娘皇女を娘として認知させた。
 雄略天皇13年、狭穂彦王の玄孫の歯田根命が采女の山辺小嶋子と密通し、それが発覚すると天皇は歯田根命を目に預け、謝罪させた。
 雄略天皇18年、天皇の命により、物部菟代と共に伊勢の豪族・朝日郎の討伐を命じられた。菟代は敢えて進撃せず2日対峙したが、目は物部大斧手に盾を持たせて自ら進撃し、朝日郎を捕縛して斬った。菟代は命令を完遂できなかったことを恥じ、7日間にわたり天皇のもとに報告に訪れなかった。天皇がなぜ菟代が報告に来ないのか側近に尋ねたところ、讃岐田虫別が「菟代はおびえて2日間朝日郎を捕らえることができず、目が物部大斧手を率いて進撃し、朝日郎を捕縛して斬った」と述べた。天皇はそれを聞いて激怒し、菟代が所有していた猪名部を没収し、目に与えた。

春澄善縄 春澄洽子

 天長5年(828年)に文章科の旧制への復帰に伴って俊士から文章得業生に転じると共に、兄弟姉妹5人と共に猪名部造姓から春澄宿禰姓に改姓している。天長7年(830年)に対策に丙第で及第。この年は淳和天皇の意向により、善縄のために内記の人員に欠員を生じさせており、対策の及第を待って、善縄は少内記に任命される。大内記を経て、天長9年(832年)には内位の従五位下に叙爵。
 翌天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王(淳和上皇の皇子)の東宮学士に任じられる。なお、恒貞親王は自己の不安定な政治的立場を幼くして自覚しており、承和5年(838年)に善縄は親王に代わって皇太子辞退の書である『辞譲之表』を執筆している。
 承和9年(842年)7月に嵯峨上皇の崩御をきっかけに承和の変が発生し、恒貞親王が皇太子を廃され、東宮学士であった善縄もこれに連座して周防権守に左遷される。しかし、早くも翌承和10年(843年)には罪を赦され、文章博士に任じられて平安京に呼び戻された。その後、皮肉にも承和の変の黒幕ともされる仁明天皇と大納言・藤原良房の信任を受けるようになる。
 貞観2年(860年)参議に任じられ公卿に列す。貞観3年(861年)式部大輔を兼ねる。また、文徳朝より取り組んでいた国史編纂作業は、伴善男の応天門の変による失脚などがあって、最終的に良房と2人のみ(実際には善縄の単著)となって、貞観11年(869年)に『続日本後紀』として完成させた。
 貞観12年(870年)病気により重態となる。太政大臣・藤原良房から見舞いとして朝服が届けられた。同月19日に薨去。享年74。最終官位は参議従三位行式部大輔兼讃岐守。
 『扶桑略記』には「在朝の通儒」と評されたが、儒教や歴史のみならず、『周易』『老子』『荘子』の三玄の学に通じて、陰陽道に対する造詣が深かった。
 善縄は恬淡な人柄で、文章博士の任にあった際に文章生が私邸を訪れてもこれを謝絶して学閥争いに関わることを避けたという。

 初名を高子といったが、元慶元(877年)2月に陽成天皇が母后藤原高子の名に触れる女官たちに改名を命じたため高子から洽子に改める。
 洽子は清和,陽成,光孝,宇多,醍醐の五代の天皇に仕えた。貞観10年(868年)正月8日、無位から従五位下に叙位された後、同15年9月9日までに従五位上掌侍となり、洽子に改名した年の元慶元(877年)11月正五位下。そののちに典侍となり尚侍藤原淑子の下で、光孝天皇の崩御の際には鈴印供奉の大役を務めている。延喜2年(902年)に従三位の高位を賜った。特に、宇多天皇からの信任厚く、「寛平御遺誡」には糸所に出仕中の洽子への高い評価が記されている。醍醐天皇の受禅の際には剣璽使の大役を果たした。

 

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