| MB04:物部十市根 | 物部十市根 ― 物部尾輿 | MB06:物部尾輿 |

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| 物部尾輿 | 物部太媛 |
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| 安閑天皇元年(534年)、廬城部枳莒喩の娘が尾輿の首飾りを盗み、皇后・春日山田皇女に献上した事件が発覚し、この事件とのかかわりを恐れた尾輿は、皇后に配下の部民を献上した。欽明天皇が即位した際に、大連に再任されている。欽明天皇元年(539年)、大伴金村が任那4郡を百済に割譲したことを非難し、金村を失脚させて政界から引退させた。欽明天皇13年(552年)の聖王(聖明王)から仏像や経典などが献上された時(仏教公伝)には、中臣鎌子と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立した。 |
蘇我馬子の妻となり、蝦夷を産んだ。『日本書紀』でも、名前こそ明らかにされないが、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹とされている。 |
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石上麻呂 |
石上勝男 |
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壬申の乱で大友皇子の側につき、皇子の自殺まで従った。のちに赦されて遣新羅大使となり、その後法官の仕事につき筑紫総領になった。701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣,左大臣に任じられた。717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者であった。 |
養老2年(718年)、叔父の石上豊庭が没すると、石上氏を代表する立場となり、翌養老3年(719年)従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵する。 |
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石上乙麻呂 |
石上宅嗣 |
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天平4年(732年)従五位上・丹波守となって以降、藤原四子政権,橘諸兄政権を通じて急速に昇進した。 |
天平宝字5年(761年)遣唐副使に任命されたが、唐に渡ることなく、翌年には藤原田麻呂に交代して辞任している。 |
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石上息嗣 |
石上豊庭 |
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天平宝字4年(760年)北陸道巡察使に任ぜられ、天平宝字6年(762年)従五位下・播磨介に叙任される。天平宝字7年(763年)少納言に任ぜられ京官に復する。 |
天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、一族が連姓から朝臣姓に改姓。大宝4年(704年)従六位上から四階昇進して従五位下に叙爵。 |
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朴井雄君 |
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美濃国に住まう物部氏の一族といわれる。672年の壬申の乱で 大海人皇子に従って活躍した。壬申の乱が始まった際、朴井雄君は大海人皇子に舎人として仕えていた。天武天皇元年(672年)5月に大海人皇子に対して大友皇子を戴く朝廷の害意を告げた。大海人皇子はこれを調べて事実であることを知り、挙兵を決意した。 |