敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。 敏達天皇14年(585年)、大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって全裸にして、海石榴市の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。 疫病は更に激しくなり、天皇も病に伏した。敏達天皇の次には馬子の推す用明天皇が即位した。守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。用明天皇元年(586年)、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。 用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し群臣に議するよう詔した。守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き味方を募った。排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓ったが、その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。 守屋は一族の物部八坂,大市造小坂,漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。4月9日、用明天皇は崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。 7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子,竹田皇子,厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ向かった。このとき厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔を作り仏法の弘通に努めると誓い、のちに四天王寺を建立した。 迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺した。引き続き守屋の子らも殺害されたが、片野田と辰狐兄弟は、前者は筑前国鞍手に、後者には肥前国松浦に流罪されたという。さらに当時3歳だった那加世は家臣に護衛されて出羽国協和逆合に落ち延び、唐松神社を建立したと伝えられる。
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文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡に生まれた。若年の頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語を学んだ。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。 天平宝字5年(761年)平城宮改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。淳仁天皇は常にこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。天平宝字7年(763年)慈訓に代わって少僧都に任じられ、翌天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、道鏡が太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。 道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。 大宰主神の中臣習宜阿曽麻呂が宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。しかし、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。 神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方,広田,広津)が捕えられて土佐国に配流された。 庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
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