<神皇系氏族>天神系

MB07:物部守屋  物部十市根 ― 物部尾輿 ― 物部守屋 ― 弓削光武 MB08:弓削光武

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平岩張元 平岩元重
 三河国碧海郡平田庄の坂戸城主平岩氏の出。弓の名手であった。松平張忠(右京亮)・同康忠(甚六郎)に歴仕した。   平岩元重は尾張国清洲城では留守居役を勤める。その以前、三河在住時代に日近城の戦い、藤波畷の戦い、三方ヶ原の戦い、鳶ヶ巣山の戦いなどの徳川氏の主要な戦いに参加し、数多くの戦功をあげた。しかし、天正18年(1590年)8月朔日、徳川家康の関東入りに際しては三河国の自領に残留を主張して家康の勘気を受け改易となったため、後に勘気は解かれ家康四男・松平忠吉に付属されて再仕官したものの、知行150石・清洲城留守居役に終わり、家康の近従出身で犬山城主12万3千石の大名格にまで昇った同族の平岩親吉とは対照的な処遇となった。 
平岩親重 平岩親吉
 松平氏に属し、松平清康,広忠に歴仕したが、彼は京洛より岡崎城に滞在した食客の武士の無礼を憤り殺害したため、坂崎郷に戻り生涯幽居したという。  親吉(主計頭)は徳川家康の幼少の頃より近臣として仕え、家康の今川氏人質時代も近侍した。その功により、天正18年(1590年)の家康の関東入国後に上野国厩橋にて3万3千石で大名に列せられた。親吉はその後、甲斐国甲府藩主徳川義直の守役・陣代を勤め、義直を奉じて、尾張国清洲藩に移り尾張徳川家家老・犬山城主(城代)となったが、親吉の一族も親吉の一族衆として親吉に従った。親吉は嗣子がなく平岩本家は断絶したが、親吉の一族衆の平岩氏庶家は義直の直臣となり弓削衆と呼ばれた。江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、現在でも兵庫県等でその系統は続いている。
平岩正広 長坂信政

 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いに従軍し、丸根砦攻めに戦功があった。その後、三河一向一揆鎮圧,三方ヶ原の戦い,長篠の戦い,高天神城攻めなどを転戦。甲州征伐に従軍後、家督を子・正当に譲り、以後は兄弟の親吉の配下となる。親吉が徳川義直に属すると、自身も義直に仕えた。
 子の正当は江戸幕府直臣なり、旗本として平岩氏は存続した。享年には70歳と73歳の2説があり、いずれを採るかによって親吉との年齢の高低が変わる。

 家系は清和源氏義光流小笠原氏の庶流・長坂氏ともいわれ、武田家の家臣・長坂光堅とは同族(遠戚)と思われる。ただし信政以前の事績は不明である。祖父・守重、父・信重(守重の3男)が足利将軍家に仕えていたのに対し、どのようにして信政が松平氏の家臣になったのかは不明である。松平氏3代(松平清康,松平広忠,松平家康)に仕え、尾張の織田氏との戦いで活躍するなど、槍働きで功名を挙げたため「血鑓九郎」の異名を与えられ、この異名は信政の子孫代々に受け継がれた。  
長坂信宅

 天文11年(1542年)、「血鑓九郎」の異名で呼ばれた長坂信政の子供として生まれる。三河国の戦国大名・徳川家康に仕えて、掛川城の戦い,姉川の戦い,長篠の戦いなどを転戦。)特に天正10年(1582年甲州征伐の際は穴山梅雪を調略して寝返らせ、この功績から大袖と黒馬を賜った。豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐では本多忠勝の指揮下で参戦し、続く九戸政実の乱で陸奥国へ攻め込んだ際は鉄砲頭を務めた。その後は忠勝の子・本多忠朝に仕えた。
 慶長13年(1608年)に伊勢国桑名で死去。享年67。墓所は桑名の長昌寺。