清和源氏

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小笠原長忠 小笠原貞宗

 松尾長忠とも称される。父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、後に弟(長経の父の長清の養子とも)の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し伊那郡伊賀良荘の松尾の地に居住した。小笠原家の家譜によると長忠は松尾で生まれたとされる。
 長忠とその子の長政の時代、信濃において幕府から重用されたのは小笠原氏の嫡家である伴野氏(長清の子の伴野時長が祖)であったが、霜月騒動で姻戚関係にあった安達氏に連座して伴野長泰が殺害されるなど没落したため、長忠の孫で長政の子の小笠原長氏に惣領の座が復帰した。
 これに対して、近年の研究においては、長房が長経の嫡男で長忠は3男(長房と長経の兄弟関係が反対)と考えられている。また、信濃の小笠原氏の所領は伴野氏が押さえており、伊賀良荘も鎌倉幕府滅亡時に討幕の恩賞として北条氏から小笠原氏に移ったこと、更に長政が六波羅探題の評定衆に任ぜられていた事実が確認されることから、長忠から長氏までの系統が信濃ではなく京都に根拠を持っていたと推定されている。
 長氏の子孫は室町時代には信濃守護を務め(信濃小笠原氏)、江戸時代には小倉藩など、譜代大名として遇されることとなる。 

 正応5年(1292年)、信濃国松尾に生まれる。当初は鎌倉幕府に仕えていた。偏諱「貞」の字は北条貞時から受けている。
 元弘元年(1331年)からの元弘の乱では新田義貞に従い、足利高氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧に加わり、北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた。
 元弘2年/正慶元年(1332年)9月、北条高時が京へ派遣した上洛軍のなかに小笠原彦五郎(貞宗)の名がある。しかし、高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉の戦いに参加する。建武元年、この功績により信濃国の守護に任ぜられた。
 中先代の乱では北条残党により国衙を襲撃されて国司を殺され、鎌倉進軍を阻止できなかったが、鎮圧後、尊氏が後醍醐天皇から離反すると(建武の乱)、これに従った。乱における国衙焼失後、後醍醐天皇の任命した後任の国司・堀川光継を筑摩郡浅間宿に出迎えている。建武3年/延元元年(1336年)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、9月中旬、貞宗は上洛の途中、近江国で新田義貞と脇屋義助を破り、援軍に来た佐々木道誉ら足利方本軍と共に、後醍醐方の兵糧を絶つ目的で29日まで琵琶湖の湖上封鎖を行い、これが決定打となって建武の乱は10月10日に終結した(近江の戦い)。
 その後も一貫して北朝側の武将として金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど各地を転戦し、暦応3年/興国元年(1340年)には、遠江から信濃南朝方の拠点である伊那谷に入った北条時行を大徳王寺城に破った。康永元年/興国3年(1342年)には高師冬の救援要請を受けて常陸に北畠親房を攻めた。
 建武2年9月には安曇郡住吉荘を、正平2年/貞和3年4月には近府春近領を与えられ、信濃府中に進出する足掛かりを得た。正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)、京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。 

小笠原政長 小笠原長基

 南北朝の争乱において父の貞宗とともに足利尊氏に従い、北朝方の武将として各地を転戦した。興国5年/康永3年(1345年)11月12日、父から信濃守護職及び甲斐国原小笠原荘,信濃国伊賀良荘などの小笠原氏惣領の主たる所領を譲られて家督を継承した。興国6年/康永4年(1345年)8月、後醍醐天皇七回忌のための供養儀式が天竜寺において執行され、これに際して北朝方の武士が随兵として従ったが、その先陣12名のなかに政長の名前があり、帯刀32名のなかに弟の小笠原政経ら一族の名が見える。
 正平2年/貞和3年(1347年)、父の死により足利尊氏より改めて安堵を受ける。
 観応の擾乱では、最初は尊氏・高師直方についたが、諏訪直頼・祢津宗貞ら信濃国内の足利直義方による攻勢が激しく、状況が不利に成ると、正平6年/観応2年(1351年)1月、京の自邸を焼き払って直義方に降り、打出浜の戦いに参戦した。この結果、政長は守護職を解任されるが、諏訪・祢津らによる攻勢は収まることなく苦境に立たされた。これを見た尊氏は一度は自分を裏切った政長を再び味方に取り込もうと働きかけ、その結果この年の8月には尊氏方に復帰して再び守護職に任じられた。
 正平7年/文和元年(1351年)10月、南朝から直義追討の院宣を得た尊氏が鎌倉に拠った直義を討つために出陣すると、政長は尊氏軍の先鋒として遠江国に出兵し、蜂起した直義方の吉良満貞の軍勢を引間(浜松)で打ち破り、薩埵峠の戦いで上杉能憲と交戦した。12月、信濃に戻り諏訪直頼,祢津宗貞の軍を小県郡夜山中尾に破った。
 翌年、家督を長男の長基に譲った。しかし長基はまだ幼少であり、家督相続は名目上で引き続き実権は握っていたものと思われる。
 正平10年/文和4年(1355年)、信濃に拠っていた後醍醐天皇の皇子・信濃宮宗良親王が諏訪氏,仁科氏ら宮方勢力を結集して挙兵すると、長基,政長らは武田氏らとともに鎮圧に当たった(桔梗ヶ原の戦い)。この戦いの経過の詳細は明らかではないが、以降この地方における宮方勢力の行動が沈静化していることから北朝方の勝利に終わったものと考えられている。
 政長はその後も領国である信濃の平定に尽力し、正平20年/貞治4年3月21日(1365年4月12日)に没した。享年47。著書に『軍術兵用記』がある。

 観応の擾乱終結後の正平7年/観応3年(1352年)、父から家督と信濃守護職を譲られて当主となった。しかしこの時長基はまだ5歳であり、長基の当主という立場は名目上で実権は父が握っていたものと思われる。
 長基が家督を継承した時期における信濃とその隣国は、新田氏をはじめとする反室町幕府,反守護勢力が多く存在し、各地で紛争が起こっていた。その中でも特に、伊那谷の大河原を拠点として活動している宗良親王の存在は、小笠原氏にとって無視できないものであった。正平10年/文和4年(1355年)4月、南朝方の上杉憲将と祢津宗貞を破り、同年春、宗良親王が諏訪氏・仁科氏ら反守護勢力を結集して挙兵すると、長基父子は武田氏らの助力も得て鎮圧に成功し、南朝方を圧倒した(桔梗ヶ原の戦い)。
 正平20年/貞治4年(1365年)3月に父が死去し、長基は名実ともに小笠原氏の当主となった。
 翌年(1366年)、幕府は信濃守護を長基から犬懸上杉家の上杉朝房に交代させたが、その後も長基は朝房や国人衆とともに活動を行なっており、信濃における軍事力の指揮権は維持していたものとみられる。その一例として、元中4年/嘉慶元年(1387年)、長基は朝房に代わって信濃守護に任じられた斯波義種と善光寺平を争っている。
 文中3年/応安7年(1374年)、将軍・足利義満の命令で四国の南朝方に対して遠征し、その後は幕府の評定衆に補任されて在京し、義満の弓馬師範となる。元中8年/明徳2年(1391年)、明徳の乱に出陣し、山城国内野で山名氏清らと交戦した。
 時期は不明だが、家督を次男の長秀に譲った。それと同時に長秀は信濃守護に任じられたが、信濃の統治に失敗し、応永7年(1400年)に反乱を起こした国人衆に大敗した(大塔合戦)。この頃の長基・長秀父子の間には何らかの齟齬があったらしく、大塔合戦が勃発したときも京都にいた長基は何の行動も起こしていないとされる。
 応永14年10月6日(1407年11月5日)に病没、享年61。長秀は大塔合戦の一件により失脚していたため、小笠原氏は3男の政康が継いだ。 

小笠原長秀 小笠原持長

 初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392年)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399年)の応永の乱では畠山基国に従って堺を攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持は水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。
 応永7年(1400年)、京都から下向し、国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化は大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との大塔合戦へと発展し、大敗して大井光矩の仲介によって京都に逐電した。応永8年(1401年)に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。応永12年(1405年)に弟・政康に家督と小笠原氏の所領を譲渡した。応永31年(1424年)筑摩郡で死去。享年59。著書に『犬追物起源』がある。

 持長は応永3年(1396年)に京都四条の小笠原家屋敷で生まれた。父の長将は結城合戦で戦死し、祖父の死後、家督は2人の叔父長秀,政康に移り、嘉吉2年(1442年)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。この状況に不満を抱いた持長は、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張、文安3年(1446年)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦い)。しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、家督の奪取はならなかった。
 宝徳元年(1449年)に諏訪大社が上社と下社に分裂すると騒動に介入、下社を支援している。一方の上社は光康の松尾小笠原家と連合した。同年に勝元が管領を辞任、代わって持国が管領に就任すると、宝徳3年(1451年)に光康に代わって信濃守護に任命された。しかし、翌享徳元年(1452年)に勝元が管領に再任されると、享徳2年(1453年)に守護職を交替させられ光康が守護に再任された。寛正3年(1462年)に死去、享年67。子の清宗が後を継いだ。 

小笠原清宗 長坂信政

 父の代から続く宗家の家督を巡って、小笠原光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は清宗の曾孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534年)までかかることになる。
 清宗は信濃井川館に生まれた。永享元年(1429年)11月に元服、右馬助、大膳大夫、信濃守に任じられる。鈴岡小笠原家の政秀や諏訪氏と度々争い、府中に攻め込まれたため、長禄3年(1459年)頃に新たに林城を築き、居館を移す。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍を支持する。文明6年(1474年)7月、上洛して9代将軍足利義尚に拝謁する。文明10年(1478年)没、享年62。 

【MB08】を参照
長坂信宅 小笠原元続
【MB08】を参照

 祖父・小笠原政清の娘(元続の叔母)は、伊勢盛時(北条早雲)に嫁いで北条氏綱を生んでおり、この縁で当初仕えていた将軍・足利義澄や管領・細川高国が共に没落した後に従兄弟の北条氏綱を頼ることになる。
 後北条氏と将軍・足利義晴及び政所執事・伊勢貞孝との交渉役を務め、後北条氏の関東地方平定が室町幕府の利益に適うことを説明した。天文8年(1539年)には足利義晴の使者である大舘晴光が、氏綱の幕府への忠節を賞するために鷹を持って小田原城を来訪した際には、これを迎えている。『寛政重修諸家譜』などでは元亀4年まで生存していたされるが、実際には永禄元年頃までに家督を子の康広に譲り、ほどなく死去したものと考えられる。息子・小笠原康広は、氏綱の子・氏康の娘婿となった。 

小笠原長房

 小田原征伐の際には小田原城に籠城して氏直近習を率いて奮戦し、落城後は氏直に従って父とともに高野山に入った。氏直の死後、文禄元年(1592年)に京に於いて徳川家康に仕え、慶長元年(1596年)に多摩郡三田郷に350石を与えられ、関ヶ原の戦いの際には徳川秀忠の麾下で真田昌幸の上田城を攻撃した。
 後に大坂の陣に参戦し、元和9年(1623年)に大番組頭となる。後に下総国香取郡に200石の加増を受けた。寛永20年(1643年)12月7日に致仕して家督を嫡男・長真に譲った。