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小笠原長忠 | 小笠原貞宗 |
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松尾長忠とも称される。父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、後に弟(長経の父の長清の養子とも)の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し伊那郡伊賀良荘の松尾の地に居住した。小笠原家の家譜によると長忠は松尾で生まれたとされる。 |
正応5年(1292年)、信濃国松尾に生まれる。当初は鎌倉幕府に仕えていた。偏諱「貞」の字は北条貞時から受けている。 |
小笠原政長 | 小笠原長基 |
南北朝の争乱において父の貞宗とともに足利尊氏に従い、北朝方の武将として各地を転戦した。興国5年/康永3年(1345年)11月12日、父から信濃守護職及び甲斐国原小笠原荘,信濃国伊賀良荘などの小笠原氏惣領の主たる所領を譲られて家督を継承した。興国6年/康永4年(1345年)8月、後醍醐天皇七回忌のための供養儀式が天竜寺において執行され、これに際して北朝方の武士が随兵として従ったが、その先陣12名のなかに政長の名前があり、帯刀32名のなかに弟の小笠原政経ら一族の名が見える。 |
観応の擾乱終結後の正平7年/観応3年(1352年)、父から家督と信濃守護職を譲られて当主となった。しかしこの時長基はまだ5歳であり、長基の当主という立場は名目上で実権は父が握っていたものと思われる。 |
小笠原長秀 | 小笠原持長 |
初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392年)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399年)の応永の乱では畠山基国に従って堺を攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持は水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。 |
持長は応永3年(1396年)に京都四条の小笠原家屋敷で生まれた。父の長将は結城合戦で戦死し、祖父の死後、家督は2人の叔父長秀,政康に移り、嘉吉2年(1442年)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。この状況に不満を抱いた持長は、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張、文安3年(1446年)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦い)。しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、家督の奪取はならなかった。 |
小笠原清宗 | 長坂信政 |
父の代から続く宗家の家督を巡って、小笠原光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は清宗の曾孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534年)までかかることになる。 |
【MB08】を参照 |
長坂信宅 | 小笠原元続 |
【MB08】を参照 |
祖父・小笠原政清の娘(元続の叔母)は、伊勢盛時(北条早雲)に嫁いで北条氏綱を生んでおり、この縁で当初仕えていた将軍・足利義澄や管領・細川高国が共に没落した後に従兄弟の北条氏綱を頼ることになる。 |
小笠原長房 | |
小田原征伐の際には小田原城に籠城して氏直近習を率いて奮戦し、落城後は氏直に従って父とともに高野山に入った。氏直の死後、文禄元年(1592年)に京に於いて徳川家康に仕え、慶長元年(1596年)に多摩郡三田郷に350石を与えられ、関ヶ原の戦いの際には徳川秀忠の麾下で真田昌幸の上田城を攻撃した。 |