G452:小笠原長忠 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 小笠原長清 ― 小笠原長忠 ― 小笠原政康 | G453:小笠原政康 |
リンク | G454・G459・G460 |
小笠原政康 | 小笠原宗康 |
---|---|
政康は嘉慶2年(1388年)に13歳で元服し、応永12年(1405年)に兄・長秀から家督と小笠原氏の所領を譲られた。応永23年(1416年)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護・今川範政や越後守護・上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423年)には鎌倉公方・足利持氏と対立した京都扶持衆の山入氏,小栗氏,真壁氏らを救援するため、幕府代官・細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍・足利義持から重用され、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。 |
嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者で管領・畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。 |
小笠原政秀 | 小笠原長朝 |
室町時代の小笠原氏は中興の祖である祖父・小笠原政康の没後、家督争いが起き衰退していた。父の宗康は従兄の小笠原持長と争い、戦死している。宗康は死の直前に弟の光康に家督を譲っており、政秀は叔父の下で養育された。 |
宝徳元年(1449年)11月に元服、民部大輔,大膳大夫,信濃守に任じられる。文明5年(1473年)、室町幕府9代将軍・足利義尚就任後初の参内に供奉し、花の御所で犬追物を興行した際に奉行を務めた。文明10年(1478年)、父の死去に伴い家督を相続する。応仁の乱では西軍に与し、東軍方の伊那小笠原氏や諏訪大社上社に対抗した。 |
柴田康忠 | 柴田康長 |
永禄4年(1561年)から徳川家康に仕える。永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆では、自ら浄土宗に改宗し、この時の槍働きを評価されて家康より諱を賜り康忠と名乗った。永禄10年(1567年)に家康が家中の職制を新設すると、康忠は旗本先手侍大将の1人に任命される。永禄12年(1569年)、遠州攻略の戦功により家老に任命される。 |
慶長5年(1600年)第二次上田合戦では本多正信隊に属して従軍。慶長9年(1604年)、火の番頭となる。文禄2年(1593年)に父・康忠が没し、慶長18年(1613年)家臣の不祥事により改易となり、下野国足利に住む。しかし、大坂の陣に従軍し、伊達政宗隊に属した。 |
小笠原光康 | 小笠原家長 |
父の死後、小笠原氏惣領職を巡って兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。 |
応仁元年(1467年)からの応仁の乱では東軍側に付く。文明5年(1473年)、家長は将軍足利義政の命により、子の小笠原定基や木曾家豊(木曾義元の父)と共に東美濃攻略のため、足利義視方の土岐成頼が京に居る隙に、美濃恵那郡の大井城や土岐郡の釜戸村にあった荻島城を攻め落とす。その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は、天文3年(1534年)まで小笠原氏の駐留が続いた。 |
小笠原定基 | 小笠原貞忠 |
定基は、家伝の糾法に精錬していた鈴岡小笠原家の小笠原政秀から伝習を受けていたが、明応2年(1493年)1月4日、年頭の祝賀と称して政秀を松尾城に誘い、帰途を攻撃して暗殺したことから、鈴岡家は滅亡し、その遺族は府中小笠原家の小笠原長朝を頼った。翌3年(1494年)1月13日、松尾城外の毛賀沢で長朝と戦い撃退した。文亀元年(1501年)、周防国に亡命中の先代将軍・足利義稙から書を贈られた。 |
父の定基は京都の政情に明るく、大内氏らとも友誼を結んでいたため、文亀元年(1501年)6月、周防に亡命中の先代将軍・足利義稙から、上洛の際は忠節を尽くせとの奉行人奉書と大内義興の副状を受けたが、実際に上洛は実現しなかった。また、今川氏親の遠江侵攻に悩まされた斯波義寛の意向で府中家の小笠原貞朝と和睦をした上で、遠江に派兵するが敗れている。後に貞朝の娘を娶っているが、和睦は長くは続かなかった。 |
小笠原信嶺 | 小笠原政信 |
『諸州古文書』によれば、永禄元年(1558年)6月に甲府に人質として送られる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。永禄末年頃までに家督を継承する。永禄5年9月18日には伊那郡飯田城城主の坂西永忠を所領を巡り対立し、信嶺が永忠を信濃木曽郡へ放逐する事件が発生する。 |
慶長12年(1607年)、小笠原信之の長男として武蔵国児玉郡本庄城に生まれる。本庄の金鑚神社を深く信仰していたとされる。慶長17年(1612年)に父が本庄藩から古河藩へと加増移封されたことで下総国で育つこととなるが、その後も当地の金鑚神社を信仰していたため、元和年間に当社が洪水被害を受けた際には寄進し、現在地に社殿を建立した。 |
小笠原長巨 | |
天正10年(1582年)2月13日、織田氏による甲州征伐では兄の小笠原信嶺が織田信忠に降る際に人質として供出され、本能寺の変直後の同年6月14日には菅沼藤蔵を仲介して、信嶺と共に駿府城で徳川家康に拝謁する。豊臣秀吉恩顧の大名である飯田城主・京極高知の形勢を伺い、徳川方に対して謀反の気配がないことを報告した。 |