G453:小笠原政康 | 源 義清 ― 小笠原長清 ― 小笠原長忠 ― 小笠原政康 ― 小笠原貞朝 | G454:小笠原貞朝 |
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小笠原貞朝 | 小笠原長棟 |
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文明年間には在京して将軍・足利義尚の弓馬師範を務めた。文亀元年(1501年)、父の長朝が没し家督を継承する。同年、尾張守護・斯波義寛の要請に応じて遠江国二俣に遠征し、今川氏親と戦った。この時、斯波義寛の意向で対立する松尾家の小笠原定基と和睦するが、後に定基は今川方について三河国に出兵する。その後、永正6年(1507年)頃に改めて貞朝の娘を松尾家の貞忠の妻にすることで和睦を図っている。 |
林城を本拠とする府中小笠原氏出身。永正9年(1512年)、父の貞朝を師範として弓馬礼法を伝授され、永正12年(1515年)、父の死没に伴い家督を継承する。享禄元年(1528年)、将軍・足利義晴の命を受け上洛する。 |
小笠原長時 | 小笠原吉次 |
永正11年(1514年)10月23日、小笠原長棟の長男として生まれる。大永6年(1526年)元服し、家督を継いだのは天文10年(1541年)、父・長棟が出家したときと思われる。 |
父の長隆が天正3年(1575年)に没すると、引き続き松平家忠に仕え、関ヶ原の戦い後に家忠の跡を継いだ松平忠吉(徳川家康4男)が尾張国清洲城52万石に入部されると、家康の命でその付家老となり、犬山に所領を与えられた。このとき、吉次は犬山城を近世城郭にまで成長させ、城下町も整備した。慶長12年、忠吉が没すると江戸に召し返される。 |
小笠原吉光 | 小笠原貞慶 |
父が徳川家康の4男・松平忠吉の付家老となったため、吉光も忠吉に仕えた。男色にて寵愛され、武に優れた家臣団を与えられ14,000石を知行していた。石川吉信,稲垣将監らと共に藩政を取り仕切っていたが、突然出奔し奥州松島の寺に蟄居した。 |
父・長時の時代に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと共に武田氏に対抗するが、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて敗退すると、以後、諸国を放浪した。『小笠原系譜』などの系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に上杉氏(越後長尾氏)を頼り、越後国へ逃れた後、伊勢国を経て京へ逃れ、京都小笠原氏や三好氏を頼ったという。京において長時親子は信濃復帰を望み運動している。 |
小笠原信定 | 小笠原洞雪斎 |
府中小笠原家の一族。鈴岡城主。民部大輔。分家である松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興する。兄の長時が敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けたが、1554年に武田晴信の伊那侵攻の前に敗れた。兄とともに三好氏を頼り、その客将となる。永禄12年(1569年)、三好一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、信定は戦死する。 |
信濃国林城に生まれる。戦国期に信濃守護小笠原氏は甲斐の武田晴信(信玄)の信濃侵攻に際して没落する。洞雪斎も兄の長時や甥の貞慶とともに信濃を追われ、三好氏を頼って京都へ亡命する。永禄12年(1567年)1月6日の本圀寺の変の際に洞雪斎も長時,貞慶らと三好方に属するが、この合戦において敗退している。その後は越後国の長尾景虎(上杉謙信)の後援を得て武田氏に対抗した。 |
小笠原長高 | 小笠原氏興 |
別名は豊松丸,彦五郎。官位は 右馬助,左京大夫。馬伏塚城主。信濃守護の小笠原氏の一族。高天神小笠原氏の祖とされる。 |
氏興は今川義元に仕えていた。しかし、義元が桶狭間で戦死したため、義元嫡子・今川氏真が家督を嗣ぐ。しかし、氏真は凡庸な当主だったために甲斐の武田信玄に甲相駿三国同盟を破棄されて駿河に攻められ、さらに三河の徳川家康までもが遠江に侵攻して来ると、氏興は家康に内応して主君・氏真が籠城する掛川城を攻撃した。氏真はかなわず掛川城を撤退し、小田原の後北条氏のもとに亡命した。 |
小笠原信興 | 小笠原義頼 |
信興(長忠)は、春儀の孫にあたる。父の氏興は今川氏の家臣として仕えていた。今川義元とその子である今川氏真に仕えるが、永禄11年(1568年)に甲斐国の武田信玄による駿河侵攻により今川氏が没落すると、遠江国の支配を今川氏から奪った三河国の徳川家康に属し、武田領国となった駿河との最前線にあたる高天神城主となる。永禄12年(1569年)に家督を継ぐ。 |
小笠原春義(春儀,春茂)の4男で、小笠原氏興(氏清)の弟。子に小笠原義信がいる。母は今川氏親の娘。高天神小笠原家の当主。 |