<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K008:彦太忍信命 〔孝元天皇後裔〕蘇我石川 SG01:蘇我石川

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蘇我石川

蘇我満智

 『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、石川宿禰は紀角宿禰,羽田矢代宿禰,木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。『古事記』では事績に関する記載はない。

 また『日本三代実録』元慶元年(877年)12月27日条では、石川朝臣木村の奏言のうちとして、宗我石川は河内国石川の別業に生まれ、これにより「石川」を名とし、さらに宗我の大家を賜り居としたので「宗我宿禰」が賜姓されたという。

 『紀氏家牒』によると、履中天皇,反正天皇,允恭天皇,安康天皇,雄略天皇の5人に仕えたという。また、大和国高市県蘇我里に邸宅があり、それが「蘇我」の由来であるとされる。

 履中天皇2年、平群木菟宿禰や円大使主,物部伊莒弗と共に執政官となる。『古語拾遺』によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという。この伝承は蘇我氏が5世紀後半には既に朝廷財政を統括していた史実を伝えている。

 あるいは、『古語拾遺』に見える蘇我麻智の伝承は、蔵関係の伝承を語ることから、6,7世紀における蘇我氏の朝廷のクラ管掌という史実を遡らせ、蘇我氏の中でもクラを管掌した蘇我倉氏や、その末裔である石川氏によって作られた伝承であり、秦氏や蘇我倉山田石川麻呂(蘇我倉氏)の家伝に基づいて造作された可能性も指摘されている。

蘇我韓子 高向宇摩

 『日本書紀』によると、蘇我韓子は、雄略天皇9年(465年)3月、雄略天皇の命で紀小弓,大伴談,小鹿火宿禰と共に大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害し始めたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。新羅王を一時敗走させるほど奮戦した中で小弓は同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の子・紀大磐だが、大磐は父の兵馬を引き継ぐに飽き足らず、小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めて、小鹿火宿禰と対立した。小鹿火宿禰は、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると韓子に警告し、彼も大磐と対立するようになった。それを知った百済の王は、二人の仲を保とうと、大磐と韓子を百済との国境まで呼び出した。その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、とっさに大磐が射返したところ、その矢が当たった韓子は落馬して河で溺れ死んだ、とされる。

 高向宇摩の名前が歴史上に現れるのは、628年の推古天皇崩御後、誰を皇嗣とすべきかで蘇我蝦夷,阿倍内麻呂主導のもとで群臣が集まった際に、大伴鯨が亡き天皇は田村皇子を遺詔で指定したと発言し、采女摩礼志,中臣御食子らと共にそれに賛同した、ということと、この会合に不服を唱え、叔父の蝦夷の意向を尋ねようとした山背大兄王のところへ、その場に参加していた群臣らと共に蝦夷の代わりに使いに行った、ということのみである。

 以後、歴史書には一切登場していない。蘇我本宗家滅亡の際には、子・国押が蘇我氏を見限って、中大兄皇子に帰服している。

 天武天皇13年(684年)の八色の姓の制定により、高向臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓を授与されている。

高向国押 高向麻呂

 蘇我氏の配下にあったが、皇極天皇2年(643年)、山背大兄王が生駒山に逃げ込んだ際、蘇我入鹿の王追捕の命に従わず、皇極天皇の宮を守った。

 皇極天皇4年(645年)、乙巳の変では、中大兄皇子らにより入鹿が殺害されたために、漢直らと共に中大兄皇子と対立し、クーデター派に徹底抗戦の構えを見せたが、中大兄皇子の使者・巨勢徳多の説得を受け入れ、漢直を諭して軍陣を解いた。この時、国押は漢直に対して、主人である入鹿が討たれた今、蝦夷も今日明日中に討たれるだろうと述べた上で、『然らば誰が為に空しく戦ひて、盡に刑せられむか』と武装解除し、その場を立ち去ったという。

 子の麻呂の薨伝によると、孝徳天皇朝(645年~654年)において刑部尚書に就いたという。

 天武天皇10年(681年)小錦下に叙せられる。天武天皇13年(684年)遣新羅大使となり、新羅に遣わされる。同年10月の八色の姓の制定により、臣から朝臣に改姓する。翌天武天皇14年(685年)学問僧の観常,雲観らを伴って帰国し、新羅王の献上物をもたらした。

 大宝元年(701年)の大宝令の施行を通じて従四位上に叙せられ、翌大宝2年(702年)には参議に任ぜられ朝政への参加を命じられた。慶雲2年(705年)正四位下・中納言、和銅元年(708年)従三位・摂津大夫に叙任されたが、同年閏8月5日に薨去。

高向家主 高向大足

 治部少丞を経て、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の功績によって従五位下に叙爵。称徳朝では天平神護2年(766年)南海道巡察使に任ぜられ、治部少輔も務めた。

 光仁朝に入ると宝亀元年12月(771年1月)に筑後守として地方官に転じ、宝亀6年(775年)従五位上に叙され、筑後守に再任された。

 蘇我馬子が物部守屋を討った際、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇),厩戸皇子らと共に参陣した。崇峻天皇4年(590年)11月新羅討伐大将軍の一人として諸氏の臣・連を率いて裨将部隊2万余を領し、筑紫に在陣した(ただし実際に渡海はしていない)。

 厩戸皇子が伊予国の温泉に行啓した折には、同じく側近の僧・恵慈と共に同行した。

高向公輔 河辺瓊岳

 初名は桑田麻呂。少年時代に出家して湛慶と名乗り延暦寺に住む。真言を学んだが教義に精通し、阿闍梨となった。仁寿年間(851~854年)に皇太子・惟仁親王(のち清和天皇)に侍したが、惟仁親王の乳母との密通が露見し、太政大臣・藤原良房の命令により還俗させられる。比叡山の僧達は僧としての資質に優れた湛慶の還俗を強く嘆き惜しんだという。

 還俗後は公輔と称する。天安3年(859年)従五位下に叙爵し、翌貞観2年(860年)中宮大進に任ぜられて、皇太夫人・藤原明子に仕える。貞観8年(866年)式部権少輔に転じると、貞観9年(867年)従五位上・式部少輔、貞観16年(874年)正五位下と累進し、貞観19年(877年)陽成天皇の即位に伴う叙位にて従四位下に至った。元慶4年(880年)10月19日卒去。享年64。

 『今昔物語集』に湛慶の密通,還俗に関する説話がある。

ある時、慈覚大師の弟子の湛慶阿闍梨が、夢の中で不動尊から「前世の因縁により汝は某国某郡の誰某の娘と通じて夫婦になる」とのお告げを受けた。湛慶は戒律を破ることを防ぐために、10歳ほどのその女性を捜し当て彼女の首を切って京に逃げ帰った。のちに、病気の祈祷のために忠仁公(藤原良房)の屋敷に参上した際、湛慶はその家の女房と密通してしまう。女房の首には大きな傷跡があり、果たして以前殺そうとした少女その人であった。湛慶は因縁の深さに心を打たれ、還俗してその女房と夫婦になったという。なお、公輔の時代から約300年下った平安時代後期の『玉葉』にも筆者である九条兼実が藤原長光から聞いた話としてほぼ同様の話が記されている(ただし、長光は公輔の法名を「惟修」、彼が殺そうとした少女は当時4,5歳であったとする)。長光は藤原公雅が「公輔」と改名したことについて新しい名に良くない先例があるとして、不祥事を起こして還俗・改名した高向公輔の例を挙げたとみられている。

 河辺氏(川辺氏)の名前は河内国石川郡河野辺(大阪府南河内郡千早赤阪村に当たる)に由来する。主として外交面で活躍した一族であった。

 562年(欽明天皇23年)7月、河辺臣瓊缶は新羅征討軍の副将として大将軍・紀男麻呂とともに朝鮮半島に渡り戦っていた。男麻呂は哆唎から兵を出発させ、瓊缶は居曽山より兵を出発させた。これは、男麻呂は忠清北道南部から秋風嶺を越えて新羅領内へ進み、瓊缶は全羅南道東南部の長水または雲峰方面から任那の故地に進入しようとした、ということである。

 この時、任那に到着した部隊は、薦集部首登弭を百済に派遣して、今後の軍事計画について打ち合わせをしようとしたが、登弭は妻の家に立ち寄り、印書(機密文書)や弓箭を路に落としてしまった。そのため、新羅は詳しくその計画を知ることになり、わざと敗北を重ねて投降したいと申し出てきた。 紀男麻呂は油断大敵と警戒したが、瓊缶はさらに進軍して転戦した。新羅側は白旗をあげて武器を捨てて降伏したふりをした。この罠にひっかかった瓊缶は新羅軍の集中攻撃を受けた。ようやく瓊缶は軍を後退させ、野営を敷いたが、時遅く、兵卒達は瓊缶を見放していた。

 新羅の闘将は自分から陣営の中に進んで、瓊缶や同行していた婦女たちを捕虜にした。瓊缶は、妻の甘美媛を身代わりにして命乞いをし解放された。後で妻は戻ってきたが、瓊缶を拒絶したという。その後、瓊缶がどうなったのかは、記録にはない。

 翌月、大和政権は大将軍・大伴連狭手彦を派遣し、高麗を兵数万で征伐している。また、上記のようないきさつがあったにもかかわらず、11月には、新羅は使者を送り、献上品と調とをたてまつったが、使者は新羅が任那を滅ぼしたことに天皇が腹を立てていることを知り、そのまま摂津国三嶋郡に定住したという。

河辺禰受 河辺百枝

 位階は冠位十二階第二位の小徳であるため、大和政権内部における発言力が大きく蘇我馬子の信任も厚かった。

 推古天皇31年(623年)7月、征新羅大将軍・境部臣雄摩侶,強硬派の中臣臣国のもとで副将軍の一人として任命され、数万の軍を率いて新羅を討った。戦況は日本の有利に働き、新羅国王は降服した、とある。

 これは、同年の新羅による任那侵攻に対する大和政権側の抗議行動であったが、群卿を交えた閣議では、新羅側の態度を探るための使者を使者を送ることになり、そのために新羅に吉士磐金,吉士倉下が派遣されていた状態の最中でもあった。政権内における意見の不統一が、半島政策を巡って露わになってしまった瞬間であった。

 禰受の名前はこの箇所にしか登場しないが、同じ『日本書紀』巻第二十二には、以下のような説話がある。

 推古天皇26年、河辺臣を安芸国に派遣して船舶を作らせた。山に到着して船用の材木を捜し、適当な木があったので切ろうとしたが、ある人が雷神の木なので切ってはいけないと言った。人夫に伐採させると大雨と雷電が起こったので、河辺臣は剣をとって、人夫ではなく我が身を傷付けよと天を仰いで待ったが、十回雷鳴したが河辺臣を傷つけることはできなかった。船は無事完成したという。

 また、巻第二十三によると、628年、推古天皇の後継の天皇を巡って、田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄王とが争った際に、蘇我蝦夷の命で山背大兄王のもとへ遣わされた使者の1人が禰受のことではなかったか、と言われている。

 川辺臣一族は、天武天皇13年(684年)11月の八色の姓で、朝臣の姓を授けられている。

 中大兄皇子が筑前国の朝倉宮から長津宮へ遷幸し、軍の編成を行い百済救援軍を組織したとき、前軍の将軍に阿曇比羅夫連とともに河辺百枝臣がいる。

 662年5月、阿曇比羅夫らは船師170艘を率いて、豊璋と途中で加わった鬼室福信らを百済に送り、豊璋を百済王位につけ、百枝たちの任務は一応終了した。この後、河辺百枝がどのような働きをしたのかは、描写されてはいない。

 それから14年後、天武天皇6年(677年)10月、内小錦上の河辺臣百枝は、民部卿に任命された。

 一族の河辺臣子首は天武天皇10年(681年)12月に筑紫国へ派遣されて、新羅使の金忠平を饗応したという。川辺臣は、天武天皇13年(684年)11月の八色の姓で、第2位の朝臣の姓を授与されている。

河辺東人

 天平5年(733年)の山上憶良の沈痾の時に、藤原真楯の使者として容態を尋ねている。

 それからしばらく事績が知られていないが、称徳朝の天平神護3年(767年)正月、安倍草麻呂,吉備真事,笠乙麻呂らとともに、正六位上から従五位下に叙爵。光仁朝では、宝亀元年(770年)10月、豊国秋篠の後任の石見守に任命される。