SG01:蘇我石川 | 蘇我石川 ― 田口川堀 | SG04:田口川堀 |
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田口川堀 |
田口益人 |
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孝徳朝の大化元年9月3日(645年)、古人皇子は蘇我田口川掘を中心として物部朴井椎子,吉備笠垂,倭漢文麻呂,朴市秦田来津と共に謀叛を企てた。ところが、9日後に吉備笠垂は中大兄皇子にこの企てを密告し(あるいは阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の前で自首し)、中大兄は兵若干を派遣して、古人らを討ち取った、あるいは11月30日に兵40人によって息子ともども斬殺され、妃や側室は自殺してしまった。 |
田口筑紫または田口豊嶋の子とする説がある。始め石川朝臣姓を称していたが、大宝2年(702年)田口朝臣の本姓に復する。慶雲元年(704年)従六位下より四階昇進して従五位下に叙爵。 |
田口大戸 |
田口息継 |
天平勝宝7年(755年)防人部領使として防人を率いて下野国から筑紫へ派遣された際に、兵部少輔・大伴家持に防人歌18首を進上し、うち11首が『万葉集』に採られている。 |
延暦16年(797年)従五位下に叙爵し、雅楽助次いで鋳銭次官に任ぜられる。延暦25年(806年)桓武天皇の葬儀に際して、養役夫司を務める。 |
田口房富 |
桜庭良遠 |
淳和朝末の天長9年(832年)従五位下に叙爵する。仁明朝では左衛門権佐を務め、承和6年(839年)伊勢斎宮で火災が発生し官舎100余棟が焼失した際、斎内親王(久子内親王)を慰問するために派遣された。また、承和7年(840年)淳和上皇が崩御した際、鈴鹿関の固関のために伊勢国へ派遣された。 |
桜間介良遠とも称される。田口一族は四国の有力豪族として四国に落ち延びた平家を支えていた。源義経が平家討伐のため少数の兵で阿波へ渡り、待ち構えていた養父・田口良連の軍勢を撃破して良連を捕縛した。 |
粟田成良 |
田口教能 |
阿波国,讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安3年(1173年)、清盛による大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られる。鹿ケ谷の陰謀では首謀者の1人であった西光の四男・藤原広長が阿波郡柿原にあり、清盛の命により成良が柿原を襲撃して広長を討ち取った。西光の一族は近藤氏を称して在庁官人として進出しており、成良の出身とされる粟田氏とは競合関係にあったとされている。成良が平家に接近した背景には西光を通じて院権力の支援を受けた近藤氏との対立があったとされる。 |
四国の最大勢力であった田口一族は四国に落ち延びた平家を支え、一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも平家方として源氏勢と戦った。教能は要請に応じない伊予国の河野通信を討伐するために3千余騎を率いて出陣し、通信を討ち漏らして家人150名の首を斬って屋島の内裏に戻ろうとしていた。その道中で屋島の戦いに敗れた平家を追う源義経の軍勢に遭遇する。 |