<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

SG01:蘇我石川 〔孝元天皇後裔〕蘇我石川 ― 蘇我稲目 SG02:蘇我稲目

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蘇我稲目 蘇我馬子

 宣化天皇元年(536年)、大臣となる。同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。欽明天皇元年(540年)、欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。堅塩媛は7男6女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は4男1女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。

 欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝することの可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」と反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除されたわけではなく、翌欽明天皇14年(553年)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。

 稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。

仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子と物部守屋の代まで引き継がれた。

 蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳からほど近い明日香村阪田の都塚古墳(金鶏塚古墳)は従来、一辺が28メートルの方墳か直径30メートルの円墳であるとされてきたが、2014年、明日香村教育委員会と関西大学の調査チームによって、一辺が40メートルで石が積み上げられた階段状の巨大な方墳であることが確認された。当時の大王に匹敵する規模の古墳であることから、稲目の墓である可能性が指摘されている。

 敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼,恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。

 敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。

 同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣・三輪逆を殺害させた。

 用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。

 程なく用明天皇が崩御し、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子,諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。

 崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百済へ留学させた。

 崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。崇峻は、倉梯という山間部に宮を造営し、蘇我氏やマヘツキミ層と距離を取った。そして、崇峻と蘇我馬子・蘇我氏やマヘツキミ層は、后妃問題,宗教政策,地方支配,対外戦争も含めた外交問題で分裂を招いてしまう。

 崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された際に、崇峻は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し多数の兵を召集したことで、馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇が自分を嫌っていると考え、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。

 馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子が皇太子に立てられ、摂政となった。馬子は厩戸皇子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。

 推古天皇28年(620年)厩戸皇子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を記す。

 推古天皇30年(622年)厩戸皇子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、厩戸皇子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。

 推古天皇34年(626年)馬子は死去した。馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡について、邸宅の一部だったとする説がある。その北側の水田では、一辺42mの方形地が発見されているが、それが「庭中の小池」と関連するという説がある。

蘇我蝦夷 蘇我入鹿

 蘇我馬子の子で、母は物部守屋の妹・太媛(「先代旧事本紀』によると母は物部贄子の娘・物部鎌足姫大刀自連公)。物部守屋の滅亡後に母・太媛の影響で石上神宮の神主家を下僕としたとされる。
 推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて大臣として権勢をふるった。推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅であるとして田村皇子を舒明天皇として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害した。『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかった。父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。
 舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立した。皇極天皇元年(642年)には、百済の義慈王に追放された百済の王族とその従者から国際情勢を聞き出し、かれらを「百済の大井の家(大倭の百済大井宮あるいは河内国錦部郡百済郷)」に移住させた。蝦夷は彼らを倭王権の中枢か蘇我氏の河内における地盤に置いたのであり、その優遇ぶりがうかがえる。こういった措置は、百済の怒りを買うことにはなろうが、蝦夷は百済寄りの偏った外交ではなく、高句麗や新羅なども含め、それぞれと等距離を確保した外交を志向していた。
 同年に、蝦夷は父祖の地である葛城の高宮に祖廟を造り、『論語』八佾篇によれば、臣下が行ってはならないとされる八佾の舞を舞わせたという。これは蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究では、『日本書紀』での単なる修飾であると指摘されている。また、蝦夷と入鹿が自分達の寿墓を造営し、「陵」と呼ばせ、国中の民,部曲、さらに上宮王家の壬生部を造営に使役したことが記され、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、この記事も実態はかなり異なるもの(臣下としての立場を超えないもの)であったと考えられている。
 皇極2年(643年)に、蝦夷が非公式に「紫冠」を入鹿に授け、大臣(オホマヘツキミ)としたとされるが、これも近年の研究によれば、蘇我氏内部の氏上の継承はあくまで氏族内部の問題であり、冠位十二階から独立した存在である「紫冠」は、蘇我氏内部で継承したとしても何ら問題はなかったとされる。

 

皇極3年(644年)には、蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を並べ立て、これを「上の宮門」「谷の宮門」と称し、入鹿の子供を「王子」と呼ばせ、蝦夷の畝傍山の東の家も含め、これらを武装化したとされ、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、「宮門」や「王子」という呼称は『日本書紀』の文飾であり、専横を示す記事と考える必要はないとされる。緊迫の度を増している東アジア国際情勢を考えれば、飛鳥の西方の防御線である甘樫丘や飛鳥への入り口である畝傍山東山麓の防備を固めるということは、施政者として当然の措置であり、これらのことは蘇我氏主導による国防強化という政策であったことが考えられる。なお、甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥板蓋宮を見下ろすことはできない。
 皇極4年(645年)に天皇の御前で入鹿が暗殺されると、蝦夷の許に与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ自害した(乙巳の変)。享年60。なお、『日本書紀』によれば、『天皇記』はこの時に失われ『国記』は船恵尺が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。

 

 青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。

 蝦夷が大臣であった皇極天皇元年(642年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。

 皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、入鹿は巨勢徳多,土師猪手,大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。山背大兄王の襲撃には、軽王(のちの孝徳天皇)など多数の皇族が加わっており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。

 入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。入鹿は、権臣個人が傀儡王を立てて独裁権力を振るうという、高句麗と同じ方式の権力集中を目指しており、当時の国際情勢に対処するには、これが最も効率的な方式と考えていた。

 しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承や政治方針において対立関係にあった中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変により、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。後日、父・蝦夷も自害し、ここに蘇我本宗家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の赤兄が大臣を務めるが、石川麻呂はのちに謀反の疑いをかけられ自害し、赤兄も壬申の乱で流罪となり、以降は蘇我氏(石川氏)は納言,参議まで出世するのがやっとな状態となった。かつての勢いは戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史の表舞台から完全に姿を消す事になる。

 蘇我入鹿という名前には、いくつかの議論がある。明治学院大学教授の武光誠は、当時の時代は精霊崇拝の思想に基づき、動物に因んだ名前を付けることが多かったという風潮から、蘇我入鹿も海の神の力を借りるために、イルカにあやかってこの名前を名乗ったという自説を表明している。しかしその一方で京都府立大学学長であった門脇禎二らは、中大兄皇子と中臣鎌足が彼の本当の名前を資料とともに消して、卑しい名前を勝手に名付けたという説を表明している。

 

境部雄摩侶

 位階は冠位十二階最高位の大徳であるため、大和政権内部における発言力が大きく、蘇我馬子の信任も厚かった。

 推古天皇31年(623年)7月、新羅との善隣外交を揺るがすような事態が発生していた。天皇は大臣(蘇我馬子)と相談し、群卿たちからも意見を求めたが、慎重派の田中臣と好戦派の中臣連国との対立の結果、慎重派の意見を採用することになり、吉士磐金と吉士倉下とを新羅に派遣することになった。ところが、使者がまだ半島から帰ってきていない状態で、境部雄摩侶が強硬派の中臣国と共に征新羅大将軍に任命され、数万の軍を率いて新羅を討った。ちょうどその時、磐金と倉下は交渉を成立させ、帰国するために港で風待ちをしているところであった。戦況は日本の有利に働き、新羅国王は降服した。このことを、のちに世間の人たちは、「今度の軍事は、境部臣や阿曇連が、かつて(恐らく推古天皇8年(600年)の件)新羅から多くの幣物(賄賂)を得たものだから、馬子にまた勧めたのだ。それで使いの返事も待たず早く討とうとしたのだ」のように噂し合ったという。

 既に聖徳太子はなく、馬子も推古天皇34年(626年)5月20日にこの世を去り、推古天皇36年(628年)3月7日には天皇が崩御した。

 親族の摩理勢が蘇我蝦夷に暗殺された際の、雄摩侶の動静は伝わってはいない。