<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

SG02:蘇我稲目  蘇我石川 ― 蘇我稲目 ― 蘇我倉麻呂 SG03:蘇我倉麻呂

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倉山田石川麻呂 蘇我興志

 名称は「蘇我倉山田麻呂」「蘇我石川麻呂」などとも。蘇我倉麻呂の子。『藤氏家伝』によると、「剛毅果敢にして、威望亦た高し」と評される傑物であったとされている。
 皇極天皇4年(645年)、乙巳の変の際、共に計画に賛同した。これは、蝦夷から入鹿への大臣の継承を石川麻呂(蘇我倉氏)が快く思っていなかったからである。鎌足の案により、石川麻呂の長女を中大兄皇子にめあわせることになったが、契りのできた夜に、長女は一族の日向(身狭・身刺)に奪われてしまった。石川麻呂は憂え恐縮し、なすすべを知らなかったが、父の苦境を知った妹(遠智娘)がかわりに中大兄の妃となることで解決した、という。
 入鹿の暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人、鞍作(入鹿)を殺しつ」の韓人とは、朝鮮使を暗殺者たちと誤認したものと思われるが、先祖にその名を持つ蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。
 その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)3月に、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言された。この讒言を信じた中大兄皇子は孝徳天皇に報告し、孝徳は2度マヘツキミを石川麻呂のもとに派遣して事の虚実を問わせた。石川麻呂は使者に対して、直接孝徳に陳弁したいと答えたところ、孝徳により派遣された蘇我日向と穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲した。長男の興志は士卒を集めて防ぐことを主張したが、結局石川麻呂は妻子8人と共に山田寺で自害した。

 大化5年(649年)3月、大和国の山田寺の造営にあたっていた興志は、蘇我日向の讒言により、弟の法師,赤猪らとともに父の石川麻呂が大和国の国境まで逃げて来たのを聞き、今来(高市郡)の大槻で出迎え、先に立って寺に入った。興志は寺づくりの人夫を武装させて、一戦を試みようとした。彼は父に、「私が先に進んで、やって来る軍を迎え防ぎましょう」と言ったが、石川麻呂は許さなかった。それでも納得の行かなかった興志はその夜、小墾田宮を焼こうと思い立って、士卒を集めた。だが翌日、石川麻呂に「お前は命が惜しいか」と尋ねられ、「惜しくはありません」と答えた。そして、「人臣の身で君に逆らい、父への孝心を失ってならない、山田寺は自分自身のためではなく、天皇のために作ったものである、今、日向の讒言で無謀にも殺されようとしている、せめてもの救いは黄泉国でも忠義を忘れないことである、寺へやって来たのは終りの時を安らかにするためである」という父の遺言を聞き、母親や兄弟・妹ら8人とともに、父が山田寺の仏殿で死んだ後を追って、殉死したという。

蘇我法師 蘇我赤猪

 大化5年(649年)3月、異母弟の蘇我日向の讒言を受け、孝徳天皇は査問の使者を遣わしたが、石川麻呂は、「直接天皇の御前で陳述したい」と答えた。再度使者を送ったが、同じ返事だった。そこで、天皇は軍隊を派遣して、石川麻呂大臣の家を取り囲もうとした。この時、石川麻呂は、一緒にいた法師と赤猪の2人の子を連れて、茅渟道より大和国の国境まで逃げた、と記されている。翌日、石川麻呂は長男の興志及び山田寺の衆僧に向かって、「山田寺へやって来たのは終りの時を安らかにするためである」といった趣旨の遺言を伝え、自害して亡くなった。石川麻呂の妻及び3人の息子と、一人の娘ら8人が殉死した。

 大化5年(649年)3月、蘇我日向の讒言により、孝徳天皇は査問の使者を蘇我倉山田石川麻呂は受け入れず、「ご返事は直接天皇の御前で申し上げたい」と答えた。再度使者を送ったが、同じ返事だった。そこで、天皇は軍隊を派遣して、石川麻呂大臣の家を取り囲もうとした。この時、石川麻呂は、法師・赤猪の2人の息子を連れ、茅渟道より大和の国境まで逃げた、と記されている。さらに、翌日、石川麻呂は長男の興志及び山田寺の衆僧に遺言して山田寺の仏殿で自殺し、石川麻呂の妻及び3人の息子と、一人の娘ら8人が殉死した、と『書紀』には記されている。

蘇我姪媛 蘇我日向

 天智天皇の妃となり、御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を産む。姉には、同じく天智天皇の妃となった遠智娘がいる。同じ天智天皇の妃となった、蘇我赤兄の娘の常陸娘、天武天皇に嫁いだ大蕤娘姉妹とは従姉妹にあたる。
 姉の死後は、自身の2人の娘とともに、姉の遺した2人の皇女も一緒に育てたといわれる。そのため、姉の子である鸕野讚良皇女(持統天皇)は、のちに、我が子・草壁の妃に姪娘の娘の阿閇皇女(元明天皇)を、草壁の死後、片腕となった高市皇子の妃に御名部皇女を迎えた。

 皇極天皇3年(644年)、日向の異母兄であった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘と中大兄皇子(後の天智天皇)が婚約した夜に、その娘と密通した。ただしこの件で日向がなにかしらの咎を受けた記録は無い。
 大化5年(649年)、日向は「石川麻呂が中大兄皇子を殺害しようとした」と讒言、軍を率いて石川麻呂を追討し、石川麻呂は自害して果てた。その後石川麻呂の無実が明らかとなり、中大兄皇子は日向を筑紫国の大宰帥としたが、世間ではこれを隠流しと評したという。つまり、表向き栄転の形で実際には左遷という意味だが、左遷か栄転かでこの事件の評価は変わってくる。当時の半島情勢からみて筑紫宰は外交上重要な職であること、古人大兄皇子や有間皇子の事件と経過が酷似していることからみて、事件の首謀者は中大兄皇子であり、日向はその功で栄転したとする見方は多い。また、前述の密通事件も、石川麻呂と中大兄皇子との縁談を破談にさせ、右大臣の威信を揺るがし、最終的に蘇我氏惣領の地位を得るための行動、と考えることもでき、さらには密通事件の頃は既に中大兄皇子の親派となっており、その指示を受けて行動した、と考える見解もある。
 のち日向は白雉5年(654年)、孝徳天皇の病気平癒のために般若寺を創建したと伝えられる(上宮聖徳法王帝説)。この般若寺が、奈良般若寺と筑紫般若寺、片岡般若院のいずれを指しているかはまだわかっていない。

蘇我連子 石川石足

 『日本書紀』天智天皇紀3年5月条において死亡記事が見られるのが、同時代史料に見える連子の最初で最後の記述である。このときの冠位は大紫で、「蘇我連大臣薨」と書かれていることから斉明天皇や天智天皇の下で大臣を務めていたことがわかる。『扶桑略記』によると、この時右大臣であったとされる。おそらく、斉明4年(658年)あるいは5年(659年)頃に、巨勢徳多か大伴長徳のどちらかの後任となったと考えられ、父祖の占め続けた地位に、蘇我氏として約10年ぶりに上ったことになる。しかし、大臣としての具体的な事績は明らかでない。
 連子は天智3年(664年)に死去した。連子の子孫が繁栄したのは、連子が早くに亡くなり、彼やその子供達が中大兄皇子の謀略や壬申の乱に巻き込まれることもなかったからである。

 朱鳥元年(686年)に石川朝臣姓を与えられる。元明朝の和銅元年(708年)正五位上・河内守に叙任される。のち、和銅7年(714年)従四位下、養老3年(719年)従四位上に昇進する。
 養老4年(720年)太政官の首班にあった右大臣・藤原不比等の没後に行われた任官にて、左大弁に抜擢される。この任官については、それまで石川氏の氏上であった石川難波麻呂が没し、石足が氏上となった可能性も指摘されている。翌養老5年(721年)大宰大弐に転じるが、大宰帥・多治比池守は本官が大納言であり遥任であったため、石足は九州へ下向したと想定される。
 聖武朝に入り神亀元年(724年)天武天皇の夫人であった大蕤娘(蘇我赤兄の娘)の、神亀5年(728年)にはその娘の田形内親王の薨去にあたり、石川氏を代表して葬儀の監護を務めている。
 叔母の蘇我娼子は藤原不比等に嫁いで、藤原武智麻呂,藤原房前,藤原宇合を儲けており、石足は藤原四兄弟と従兄弟の関係にあったことから、藤原四子政権成立にあたっては彼らと協力してその政権確立を助けた。神亀6年(729年)2月の長屋王の変に際しては、武智麻呂に近い多治比縣守,大伴道足と共に権参議に任ぜられて、太政官における長屋王排除の議決決定に尽力し、長屋王の自殺後にはその弟である鈴鹿王の邸宅に派遣されて、長屋王の兄弟姉妹・子孫とその妻を赦免する勅を伝えている。3月には変での功労によって従三位に昇叙された。同年8月9日に薨去。享年63。

石川年足 石川名足

 少判事を経てしばしば地方官を務めた。勲十二等の勲等を持っていることから、この間に東北地方の地方官を務めていた可能性もある。昇進は遅く、天平7年(735年)に48歳にしてようやく従五位下に叙爵された。まもなく出雲守に任ぜられると、任に就いて数年にして人民は満足し安らかであったことから、天平11年(739年)聖武天皇に善政を讃えられ、絁30疋・布60端・正税3万束を与えられた。
 その後は、左中弁を務めたほか春宮員外亮のち春宮大夫として春宮・阿倍内親王に仕えながら、聖武朝の後半は順調に昇進する。天平20年(748年)には参議に任ぜられ公卿に列した。
 天平9年(737年)に藤原四兄弟がそろって天然痘により死没していたこともあり、聖武朝の後半には藤原氏の権勢は一時的に後退していたが、父・石川石足と特に親しかった藤原武智麻呂の次男である藤原仲麻呂が台頭すると、仲麻呂の又従兄弟にあたる年足もその権勢に与ることとなる。天平勝宝元年(749年)7月の阿倍内親王の即位(孝謙天皇)に伴い従四位上に叙せられ、同年8月に紫微中台が設置されると、その次官(紫微大弼)に任ぜられて仲麻呂の補佐にあたっている。
 その後も、仲麻呂が権勢を振るった孝謙,淳仁朝にかけて順調に昇進している。またこの間の天平勝宝9歳(757年)から天平宝字3年(759年)にかけて『養老律令』の施行およびその施行細則である『別式』20巻の編集、官号(官職名)の唐風変更等に貢献した。特に『別式』は淳仁天皇への意見封事によって採用され、着手されたものであったが、施行されないまま散逸している、しかし、当時実務の参考として非常に活用され、『弘仁式』の元になったとされる。天平宝字4年(760年)には73歳という高齢ながら御史大夫に至った。これは祖父・安麻呂以降の蘇我氏(石川氏)の氏人としては最も高い官職への昇進であった。しかし、直後の光明皇后の崩御や孝謙上皇の病を治した道鏡の台頭等、仲麻呂の権勢に陰りが見え始めてきた天平宝字6年(762年)9月30日薨去。享年75。薨去の際、淳仁天皇から佐伯今毛人,大伴家持が弔いのために遣わされた。

 天平宝字5年(761年)従五位下・下野守に叙任される。その後、淳仁朝から称徳朝にかけて、伊勢守,備前守,大和守と地方官を歴任する。特に称徳朝後半は陸奥鎮守将軍・陸奥守と蝦夷征討の任にも当たっている。またこの間、天平宝字8年(764年)従五位上、天平神護2年(766年)正五位下、神護景雲元年(767年)には伊治城築城の功労により正五位上と、称徳朝にて順調に昇進している。
 光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)兵部大輔次いで民部大輔と京官に復し、いわゆる三十八年戦争と呼ばれる蝦夷征討の時代が始まる前に、名足は蝦夷征討の任務を離れている。宝亀4年(773年)従四位下に昇叙されると、光仁朝では大宰大弐・右大弁と要職を歴任し、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列した。なお、光仁朝にて編纂が開始された『続日本紀』の作成に淡海三船,当麻永嗣らとともに参画しているが、編纂作業は以前の下書きに因循して十分に整えることができず、生前には完成しないまま菅野真道等に引き継がれている。
 天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴って従四位上に叙せられると、桓武朝の初頭に急速な昇進を果たし、延暦4年(785年)中納言に至る。延暦7年(788年)6月4日薨去。享年60。

石川真守 石川道益

 称徳朝の天平神護2年(766年)従五位下・近江介に叙任。のち、右京亮・中務少輔を歴任する。
 神護景雲4年(770年)称徳天皇の崩御後まもなく少納言に任ぜられ、宝亀2年(771年)従五位上に叙せられるが、翌宝亀3年(772年)遠江守次いで越中守として地方官に転じる。宝亀7年(776年)中務少輔次いで式部少輔に任ぜられて京官に復し、宝亀11年(780年)正五位下に叙せられている。
 桓武朝に入り、延暦2年(783年)従四位下・大宰大弐に叙任される。大宰府での官職を勤め上げ、延暦9年(790年)参議兼右大弁となり公卿に列した。議政官として右大弁,大宰大弐,刑部卿などを歴任する一方、延暦10年(791年)従四位上、延暦13年(794年)正四位下、延暦15年(796年)正四位上と昇進している。
 延暦17年(798年)4月に致仕し、同年8月19日卒去。享年70。結果的に石川氏(蘇我氏)からの最後の公卿となった。

 桓武朝の延暦16年(797年)従五位下に叙爵し、但馬介に任ぜられる。延暦20年(801年)遣唐副使に任ぜられる。延暦22年(803年)3月に遣唐使節に対する餞別の宴が行われ、道益は御衣一襲と金150両を与えられる。4月に大使・葛野麻呂と共に節刀を授けられて難波津より出航するが、まもなく暴風雨を受けて遣唐使船が破損して航海が不可能となる。翌延暦23年(804年)7月に最澄らと共に第二船に乗船して唐に渡り、無事に明州に到着する。しかし、病に伏し、延暦24年(805年)長安へ出発できないまま明州で没した。享年43。同年7月に葛野麻呂以下遣唐使節一行が帰国して功労の叙位が行われた際、道益は従四位下を贈られた。
 仁明朝の承和3年(836年)遣唐使として渡唐するも客死した8名に叙位が行われ、道益は従四品上の位階を贈られた。
 甚だ才能があり、書記に通じる一方で、行儀作法も美しかった。唐で没したことを朝廷に惜しまれたという。冥界での道益の思いを受けて、道益の墳墓には霊芝が生えていたとされる。

石川豊成 石川垣守

 式部大丞等を経て、孝謙朝の天平勝宝6年(754年)従五位下・右少弁に叙任され、同年東山道巡察使に任ぜられる。のち、天平宝字2年(758年)畿内七道に対して問民苦使が派遣された際に、豊成は畿内使となる。同年8月に淳仁天皇の即位に伴って藤原仲麻呂政権下で弁官を務めながら順調に昇進し、同年12月には参議に任ぜられ公卿に列した。また、この間の天平勝宝6年(754年)太皇太后・藤原宮子崩御、天平勝宝8歳(756年)聖武上皇崩御では御装束司を、天平宝字4年(760年)光明皇太后崩御にあたっては前後次第司を務めている。
 天平宝字8年(764年)正月に従四位上に叙せられるが、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱では仲麻呂側に加勢しなかったらしく、乱発生直後に正四位下に昇叙された。称徳朝では議政官として右大弁,大蔵卿,大宰帥,宮内卿,右京大夫などを兼帯し、天平神護元年(765年)には従三位に叙せられた。また、神護景雲4年(770年)の称徳天皇の崩御に際しては山陵司を務める。
 同年10月光仁天皇の即位に伴い正三位に叙せられ、翌宝亀2年(771年)中納言に昇進する。宝亀3年(772年)9月8日薨去。
 天平宝字3年(759年)頃に越中国射水郡に家領があったとの記録がある。

 天平勝宝7年(756年)東大寺に対して絵軸20枚を求めたとの記録があり、外嶋院の写経所に出仕していたものと想定される。天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に付いて、乱の最中に正六位上から二階昇進して従五位上に叙せられ、翌年正月には乱の功労により勲六等の叙勲を受けた。のち木工頭を経て、神護景雲4年(770年)7月に正五位下に叙せられ、同8月の称徳天皇の大葬に際して装束司を務めた。

 光仁朝に入ると、宝亀2年(772年)安房守として地方官に転じるが、まもなく伊予守に遷り、宝亀3年(772年)には再び木工頭に復す。その後、光仁朝中盤は順調に昇進し、中務大輔,右京大夫と京官を歴任した。宝亀9年(778年)伊予守に任ぜられ地方官に遷る。

 天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく刑部卿に任ぜられて京官に復すと、左京大夫,武蔵守,宮内卿を歴任する傍ら、造長岡宮使および別当として長岡京造営を担当した。延暦3年12月(785年1月)従四位上に昇進し、翌延暦4年(785年)正四位上に至る。同年9月に発生した藤原種継暗殺事件に連座した早良親王を淡路国へ配流するために派遣され、船で親王を移送している。延暦5年(786年)5月5日卒去。また仏教への信仰心が厚く、道璿に師事して竜淵居士と称された。

石川河主 石川清主

 初め縁あって出家して僧籍にあったが還俗して朝廷に再出仕し、延暦13年(794年)に従五位下に叙爵。以後、木工頭,造宮亮,播磨介等を歴任し、延暦23年(804年)に菅野真道と共に僧綱事務の監督を命じられる。またこの間に従五位上に叙せられている。延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。
 嵯峨朝では内匠頭,民部大輔を務める傍ら、弘仁4年(813年)従四位下、弘仁13年(822年)従四位上と昇進した。弘仁14年(823年)4月の淳和天皇の即位に伴い正四位下、同年11月には正四位上と続けて昇叙される。のち左京大夫,武蔵守などを歴任した。この間、天長4年(827年)山陵の木を伐採するために、天長5年(828年)天変地異を鎮める祈祷を行うためにそれぞれ柏原山陵に派遣されている。天長7年12月(831年1月)27日卒去。享年77。

 延暦14年(795年)信濃国介在任中に、信濃国小県郡人の久米舎人望足から命中しなかったものの矢を射かけられる。朝廷から捜査のために派遣された衛門佐・大伴是成の尋問を受けて、久米舎人望足は罪状を認め讃岐国への流罪に処された。
 延暦19年(800年)出雲国介の任にあった際、俘囚の慰撫に関して以下の優遇策を言上する。しかし、出費が多すぎること、百姓に負荷がかかることから朝廷の制度とすべきでないとして、今後優遇をすることは認められなかった。
 冬期の衣服について、慣例の絹・麻布の交互から替えて絹のみ支給とする。俘囚一人あたり1町の乗田(班田の際の剰余の田)を支給して富裕な百姓に耕作させる。冬期に到来した新来の俘囚60人に対して、絹1疋・綿1屯を支給、5-6日間隔で饗事を実施し禄を与え、毎月1日に慰問を実施、百姓を動員して与えた畑地を耕作させる。
 延暦20年(801年)出雲国島根郡人の大神掃石継人、出雲郡人の若和真常、楯縫郡人の品治部真金らが、出雲介の清主と共に悪行を行ったとの理由により、長門国への流罪に処されている。

石川豊人 蘇我果安

 春宮大進兼中務大丞を経て、聖武朝末の天平20年(748年)従五位下に叙爵し、翌天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位後まもなく少納言に任ぜられる。その後、孝謙朝では主税頭,越中守、淳仁朝では造宮少輔・大輔、称徳朝では刑部少輔を歴任する。この間に発生した多くの政変には巻き込まれずに済んだ一方で、春宮大進として仕えた阿倍内親王(孝謙天皇・称徳天皇)の治世が相当期間あったにもかかわらず豊人の昇進は滞り、天平宝字8年(764年)の従五位上への昇叙に留まっている。
 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位後間もなく右少弁に任ぜられると、光仁朝では弁官を務めながら順調に昇進する。光仁朝末の宝亀9年(778年)大和守に任ぜられ、地方官に転じる。
 天応元年(781年)桓武天皇が即位すると出雲守に遷される。しかし、延暦4年(784年)になると従四位上・右京大夫に叙任されて京官に復し、のち中宮大夫,大蔵卿,武蔵守を歴任した。
 延暦9年(790年)5月3日または延暦10年(791年)5月4日卒去。
 東京都世田谷区大蔵は、晩年、豊人が大蔵卿と武蔵守を兼任していた頃、居住していたことに由来すると伝えられる。

 天智天皇10年(671年)1月5日に、巨勢人,紀大人と共に御史大夫になった。同日に大友皇子(後の弘文天皇)が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。
 同年10月17日、重病の天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を大殿に呼び入れた。大海人皇子は、皇后を次の天皇にたて、大友皇子を皇太子にするよう進言し、あわせて自らの出家を申し出た(天智天皇に疑われていることを悟り、謀反の疑いを解きつつ京から離れたものと考えられる)。2日後、僧の服を着て吉野に向かう大海人皇子を、果安は蘇我赤兄や中臣金と共に菟道(宇治)まで見送った。
 11月23日に、大友皇子を含めて上に挙げた6人の重臣は、内裏の西殿の織物仏の前で誓盟を交わした。まず大友皇子が手に香炉をとって立ち、「六人心を同じくして天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。あとの5人も香炉を手にして次々に立ち、「臣ら六人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇も誅罰する。三十三天はこのことを証し知れ。子孫が絶え、家門が滅びよう」などと泣きながら言った。29日に5人の臣は大友皇子を奉じて天皇の前で誓った。「天皇の詔」の具体的内容が明らかにされないが、一般には大友皇子を次の天皇に擁立することと理解されている。29日に5人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。12月3日に天智天皇は崩御した。
 天武天皇元年(672年)6月22日に大海人皇子は反乱(壬申の乱)に踏みきり、美濃国の不破に兵を集めてそこに移った。この際、山部王,蘇我果安,巨勢比等(巨勢人)が、数万の兵力を率いて大海人皇子を討つべく不破に向けて進発した。しかし7月2日頃、犬上川の岸に陣を敷いたとき、山部王は果安と比等に殺害されたため、混乱のため進軍が滞った。果安は帰ってから首を刺して自殺した。なお、果安の子は乱の終結後に配流された。