K008:武内宿禰 | 武内宿禰 ― 紀 角 | KI02:紀 角 |
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紀 角 | 紀 小弓 |
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『日本書紀』では「紀角宿禰」、『古事記』では「木角宿禰」、他文献では「紀都奴」「都野宿禰命」「都怒足尼とも表記される。 |
雄略天皇9年(465年)、雄略天皇の命で蘇我韓子,大伴談,小鹿火宿禰らと新羅を征伐するために朝鮮へ渡った。その際に、「自分は妻をなくしたばかりで、自分の身の回りの世話をしてくれるものがいないので、そのことを天皇に伝えてください」と大連の大伴室屋を介して伝えた。天皇は気の毒に思い、小弓の面倒を見るようにと、吉備上道采女大海を与えた。
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紀 大磐 | 紀 男麻呂 |
雄略天皇9年(465年)5月、父が雄略天皇の命を受けての新羅との交戦中に病死したと聞いて、百済に向かうが、横暴な振る舞いによって小弓の後に大将として権力を握っていた小鹿火宿禰を怒らせてしまう。小鹿火は、蘇我韓子を唆し、彼を暗殺しようとしたが、韓子は返り討ちにされ、小鹿火も、帰還の際、角国に留まってしまうことになる。このとき生磐も一時帰国していた。 |
欽明天皇23年(562年)任那を滅ぼした新羅を攻めるために、大将軍として朝鮮半島に派遣される。新羅が任那を攻めたときの様子を問責するために、哆唎から任那に入ると、薦集部登弭を百済に遣わせて新羅攻撃計画の打ち合わせをさせた。登弭は移動の途中で軍の機密文書や弓矢を紛失したことから、攻撃計画が新羅の知るところとなり、新羅は急に大軍を動員して故意に敗北を重ねて降伏を請うた。男麻呂は新羅軍を破って百済軍に合流すると、勝っていても安心せずに危急に備えるべき旨、配下の士卒に注意を促したという。 |