H201:平 維幹 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維幹 ― 小栗重義 | H211:小栗重義 |
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小栗重成 | 小栗満重 |
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小栗氏は常陸大掾氏の一族で、伊勢神宮領である小栗御厨(現・筑西市小栗)の荘官を相伝した。治承4年(1180年)源頼朝挙兵の際、当初は大掾氏一族のほとんどが反頼朝方につき、北常陸の佐竹氏に従った大掾氏一族の中に重成の名がある。同年、富士川の戦いで平氏軍を破った頼朝は馬首を返して常陸平定に乗り出し、金砂城の戦いで佐竹氏を倒した。このとき重成は頼朝方に転じたようで、帰路に頼朝が重成の八田館に立ち寄っている。 |
応永18年(1411年)10月、鎌倉公方・足利持氏に叛して兵を挙げ、持氏より派遣された小山満泰(持政の父)の討伐軍の撃退に成功する。その後の上杉禅秀の乱(1416年)でも満重は上杉禅秀方に与して持氏に反抗するが、敗北して降伏。戦後、持氏に所領の大半を没収されたことで再び反乱を起こすが、応永23年(1423年)には持氏自ら兵を率いて反乱の鎮圧に成功し、敗れた満重は自殺した(小栗満重の乱)。なお、その本貫地である小栗御厨(現在の茨城県筑西市)は、室町幕府の御料所(直轄地)である中郡荘の隣地であり、一連の反抗は室町幕府中央の意向を受けた動きであったとする解釈もある(京都扶持衆)。 |
小栗助重 | 小栗重勝 |
足利持氏の死後に起きた結城合戦で戦功を挙げて旧領への復帰を許されたが、康正元年(1455年)、享徳の乱の最中で第5代鎌倉公方・足利成氏(持氏の子)の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘を失ってしまい、その後は出家して宗湛と号して、8代将軍・足利義政の絵師として活躍した。 |
当初、江戸で徳川秀忠に仕えていたが、父が結城で死去した後に子・吉六正重(五郎左衛門正高)とともに秀康に出仕する。 |
小栗正矩 | |
江戸時代前期の越後国高田藩の筆頭家老である。通称は美作。松平光長入封から41年目の寛文5年12月(1666年2月)、越後高田地震により大きな被害を受け、藩政を執っていた父・正重,荻田隼人が倒壊家屋により共に圧死した。正重の跡は息子である正矩が父の高田城代を継ぎ、荻田隼人の跡はその息子である荻田主馬が1万5,000石で同じく清崎城代を継いだ。 |