父・正久の出自は不明。三河国青野の出身で、永禄9年(1566年)より家康に仕える。家康の鷹狩の際に召出され、鷹匠や鳥見役を任された。三方ヶ原の戦いでは敗走する家康に徒歩でお供し、その最中、馬を失って窮地に陥った大久保忠隣に、久次が敵から馬を奪った馬を忠隣に与えて助け、自らは徒歩で浜松まで辿り着き、黄金十両を賜った。 小牧・長久手の戦い,関ヶ原の戦いにも参戦した。下総国葛飾郡,千葉郡,近江国伊香郡で1170石を知行し、後に相模国大住郡,下総国葛飾郡で700石を加増され、1870石を領した。子孫は5代に渡り鷹匠頭を世襲した。 天正19年(1591年)には久次,安藤直次らを大将とする鷹飼衆150人が忍で鷹狩の訓練を行い、松平家忠から反物や皿が送られている。何の罪かは分かっていないが、慶長19年(1614年)に天海は久次の助命を嘆願し、久次は許されている。