<桓武平氏>高望王系

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小栗忠吉 小栗吉忠

『寛永諸家系図伝』によれば、始祖は松平市郎(一郎忠吉)という人物で、その子の仁右衛門吉忠が母方の小栗に改めたとする。
 『寛政重修諸家譜』編纂時に小栗家から提出された家譜では、松平郷松平家と結び付けた主張をおこなっている。松平信広の末裔で岩津城主であった松平信吉が、筒針城主・小栗正重の妹との間に設けた子を忠吉とする。しかし、これよりさき、信吉は松平親忠の長男・松平親長を養子に迎え、家督と岩津城を譲っていた。忠吉が7歳の時に信吉が没したが、親長と忠吉の母との折り合いが悪く、忠吉とその母は小栗正重のもとへ寓居した。忠吉と松平遠江守の妹との間に生まれた子・小栗吉忠を正重が養ったという。のちに筒針城を与えたとしている。
 しかし、この『寛政譜』と『寛永系図』の家伝には矛盾点がみられる。

 三河小栗氏の居城である三河国筒針城で育つ。松平広忠に出仕し、小姓として仕える。のちに広忠の偏諱を受け吉忠と名乗った。広忠死後は、引き続き松平元康に仕え、はじめは槍働きを主とした。桶狭間の戦いや三河一向一揆、さらには今川氏真との掛川城攻防戦などで「小栗党」と称される一族郎党を率いて活躍したことにより、遠江国中泉に824貫文の地と、同心41名を与えられた。これがいわゆる「小栗同心」である。
 以降、吉忠の奉行としての内政面での活躍が始まることとなる。主に遠江を中心として検地や寺社領支配,街道整備などに携わっていたとされる。天正10年(1582年)甲州征伐後、凱旋のために東海道を遊覧する織田信長に備えて、浅井道忠らと共に天竜川に架橋。さらに付近の宿場などの整備を行った。これらの功によって信長より褒美を受けた記録が残る。
 天正10年(1582年)5月、安土城の織田信長に拝謁した家康に同行し、その後、和泉国堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こる。出奔し堺に隠棲していた伊奈忠次と共に家康の伊賀越えに貢献し、忠次の帰参を認めさせて同心配下とした。後にこの忠次が小栗同心の中心人物となり、後を継ぐ形で江戸幕府の内政面での基礎を築く代官頭,関東郡代へと続いていくこととなる。
 天正15年(1586年)から数年に渡って行われた、五か国総検地では、吉忠とその配下の小栗同心が中心となり検地を行った。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では駿河国吉原に架橋し、豊臣秀吉の饗応を任され、さらに出陣した家康に代わって、病をおして駿府城留守役に就くが、城内で倒れ、そのまま死去した。享年64。
 墓所は三河国宮崎の三論宗秦寶寺、のち慶長2年(1597年)家康の命により江戸(現在の東京都千代田区の心法寺)に移された。

小栗忠政 小栗信由

 奉行として内政面での活躍が目立つ父・吉忠と異なり、槍働きで活躍した。13歳の時に徳川家康の小姓として出仕。元亀元年(1570年)、姉川の戦いの際に家康の傍で警護にあたり、急襲してきた敵兵を相手に奮戦。家康はこの働きを賞賛して名槍を褒美として与えた記録が残る。
 その後も忠政は、合戦ごとに一番槍を成したため、それまでの通称であった「又市」に「又もや一番槍」の意をこめて「又一」の名を賜ったと伝わる。あまりの奮戦ぶりに、白地に黒の五輪塔の指物が血に染まって赤地のごとく見えたと寛政重修諸家譜に記されているほどである。しかし猪突猛進なため、たびたび独断専行,軍律違反などを犯し、家康の勘気を被って大須賀康高の下に預けられるなどしたこともあった。
 「小栗党」と呼ばれた一族郎党を率いて、駿河侵攻や小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどで多くの戦功をあげ、上野国,武蔵国,下総国あわせて2550石を有する旗本となり、武蔵国足立郡大成(現在の埼玉県さいたま市大宮区大成町)に入った。
 大坂の役にも出陣したが、夏の陣において鉄砲傷を受ける。その傷がもとで翌年江戸にて死去した。享年62。

 柳生新陰流の柳生宗厳に入門した。家康に小姓として仕え、御膳番を務めた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍し、佐久間実勝と共に伊達政宗の陣に赴き、旗を巻くようにという仰せを伝えた。翌年の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いにおいて敵兵の首を獲っている。元和2年(1616年)、家督を長兄・政信が継いだため、分知550石を武蔵国足立郡にもらって旗本になり、江戸柳生の柳生宗矩に学んだ。また、徳川秀忠の元で小姓組番士となる。寛永10年(1633年)2月7日、上総国長柄郡で200石を加増され750石を知行する。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣に出兵した経験から組討の必要性を感じ、駿河鷲之助と和術を編み出した。小栗流は刀術を表、和術を裏としている。正信の門人に山鹿素行や土佐藩士・朝比奈可長がおり、小栗流は土佐藩にも広まった。後に坂本龍馬も目録伝授されている。寛文元年(1661年)6月6日に73歳で死去。

小栗忠順 小栗貞雄

 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
 徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中・松平康英より呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中・酒井忠惇から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると、同月28日に「上野国群馬郡権田村への土着願書」を提出した。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、これを拒絶した。3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。
 慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎,原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵より東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原に家臣の荒川祐蔵,大井磯十郎,渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された。享年42。
小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(父・忠高の義弟・日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・忠道を養子に迎えていたが、忠道も高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてより面識があった会津藩の横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった。その後、一行は新潟を経て閏4月29日には会津に到着し、松平容保の計らいにより夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された。一行は翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話したのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の3男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885年)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した。

 1861年(文久元年)、豊後国海部郡生まれ。佐伯藩士・矢野光儀の子で矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう 。
 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、小栗忠順の娘・国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。その後は実業家に転身し、東京石油株式会社取締役を経て、アルボース消毒薬を発明し、製造メーカーである扇橋製薬株式会社を創業設立し社長に就任。しかし樟脳の専売法の施行にともない、医療事業を台湾総督府に売却した。この間の1898年(明治31年)には、第6回衆議院議員総選挙に大分県第二区から憲政本党公認で出馬し当選、衆議院議員となり1期を務める。1900年(明治33年)、商用にて清国に渡航、上海を経て、天津滞在中に北清事変に遭遇し籠城を余儀なくされるが籠城期間中に功績があり、帰国後、明治天皇から一時金を賜う。
 政界引退後は、実業界で活躍する一方、報知新聞などにて社会福祉の充実を訴え産児制限論を発表したり、加藤時次郎,鈴木梅四郎らとともに、社団法人実費診療所を設立するなど、日本における福祉推進、医療の社会化に貢献した。