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小栗忠吉 | 小栗吉忠 |
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『寛永諸家系図伝』によれば、始祖は松平市郎(一郎忠吉)という人物で、その子の仁右衛門吉忠が母方の小栗に改めたとする。 |
三河小栗氏の居城である三河国筒針城で育つ。松平広忠に出仕し、小姓として仕える。のちに広忠の偏諱を受け吉忠と名乗った。広忠死後は、引き続き松平元康に仕え、はじめは槍働きを主とした。桶狭間の戦いや三河一向一揆、さらには今川氏真との掛川城攻防戦などで「小栗党」と称される一族郎党を率いて活躍したことにより、遠江国中泉に824貫文の地と、同心41名を与えられた。これがいわゆる「小栗同心」である。 |
小栗忠政 | 小栗信由 |
奉行として内政面での活躍が目立つ父・吉忠と異なり、槍働きで活躍した。13歳の時に徳川家康の小姓として出仕。元亀元年(1570年)、姉川の戦いの際に家康の傍で警護にあたり、急襲してきた敵兵を相手に奮戦。家康はこの働きを賞賛して名槍を褒美として与えた記録が残る。 |
柳生新陰流の柳生宗厳に入門した。家康に小姓として仕え、御膳番を務めた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍し、佐久間実勝と共に伊達政宗の陣に赴き、旗を巻くようにという仰せを伝えた。翌年の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いにおいて敵兵の首を獲っている。元和2年(1616年)、家督を長兄・政信が継いだため、分知550石を武蔵国足立郡にもらって旗本になり、江戸柳生の柳生宗矩に学んだ。また、徳川秀忠の元で小姓組番士となる。寛永10年(1633年)2月7日、上総国長柄郡で200石を加増され750石を知行する。 |
小栗忠順 | 小栗貞雄 |
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。 |
1861年(文久元年)、豊後国海部郡生まれ。佐伯藩士・矢野光儀の子で矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう 。 |