平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。通説では父の後を継いで常陸大掾になったとされているが、近年の研究では疑問視されている。 父の後を継いで筑波郡多気を本拠としたが、源平合戦(治承・寿永の乱)当初は常陸国が平家の知行国であったこともあり平家方にあった。その後、源頼朝の金砂城の戦いにおいて常陸国府が頼朝軍に占領されると、佐竹氏と共に反頼朝側についていた常陸平氏にも圧迫が加えられ、遅くても元暦元年(1184年)までに源頼朝に従った。その後は奥州合戦などで功績を挙げている。 ところが、建久4年(1193年)5月に曾我兄弟の仇討ちが発生すると、同じ常陸国の武士であった八田知家は策を巡らして「八田知家が多気義幹を討とうとしている」と流言を流し、これを知った義幹が多気山城に兵を集めると、今度は知家は義幹の許に使者を派遣して「頼朝のいる富士野で狼藉(仇討ち)が発生したので富士野へ同道して貰いたい」と要望すると、義幹はいよいよ噂が事実であると考えて防備を固めた。これを見た八田は6月12日に「多気義幹の謀反」を鎌倉幕府に訴えるに至った。幕府は八田と義幹を鎌倉へと召喚し、22日に両者を対決させた。八田は仇討事件の事を知って義幹に富士野に駆けつけようと提案したところ、義幹は兵を集めて多気山城に立て籠もり叛逆を企てたと主張した。これに対して義幹は反論したものの、彼の主張は「意味不明」とされた上に実際に兵を集めて立て籠った事実は否定できず、義幹の所領と所職は没収されて同族の馬場資幹に与えられ、義幹は岡部泰綱に預けられることになった(建久4年の常陸政変)。また、同年に発生した義幹の実弟である下妻弘幹の処刑や頼朝の実弟である源範頼の失脚もこの政変に関係するという説もある。その後の義幹の消息は不明である。 通説では、多気義幹が建久4年の常陸政変で失脚したことによって常陸平氏の惣領と常陸大掾の地位が馬場資幹に移ったとされているが、平安時代後期に常陸国の国衙から発給された文書には大掾の署判が存在せず、大掾の署判が入った文書が出現するのは馬場資幹の大掾就任後である。従って、少なくてもこの間常陸大掾の地位が空席であったと考えられ、多気義幹の常陸大掾在任や多気氏を含めた常陸平氏が建久以前より常陸大掾の地位を継承してきたとする事実に対しては否定的な説もある。また、常陸平氏自体も12世紀には解体されつつあり、多気義幹が一族中では最有力かつ中心的存在ではあったものの、惣領としての実態は失われていたとも言われている。この説によれば、多気義幹の失脚、馬場資幹の常陸大掾任命と資幹を惣領とした常陸平氏の復活(事実上の新生)が源頼朝による常陸武士の掌握の過程として行われたと考えることができる。
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常陸国内において八条院領村田荘と南野荘の開発領主を務め、村田荘の西半を分立して下妻荘として苗字の地としたらしい。あるいは同族である下妻清氏の跡を継いだともいう。また父・直幹による茨城郡分割により兄の義幹が茨城北郡を相続し、弘幹は茨城南郡の郡司を務めた。承安4年(1174年)同族の豊田頼幹が荘官を務める蓮華王院領下総国松岡荘より乱行を訴えられていることが『吉記』より知られる。 治承4年(1180年)治承・寿永の乱では当初は平氏方につき、『源平闘諍録』によれば弟の東条忠幹や同族の豊田頼幹,小栗重成らとともに北常陸の佐竹氏に従い、また兄の多気義幹も平氏軍にあり、常陸大掾氏のほとんどは鎌倉で反平氏を唱えた源頼朝と敵対した。しかし同年、金砂城の戦いで佐竹氏が没落すると、常陸は頼朝勢力によって平定される。寿永2年(1183年)下妻氏領の信太荘にいた源義広が反頼朝の旗幟を揚げて下野に侵攻したが、同国の小山氏,宇都宮氏らによって退けられた(野木宮合戦)。常陸大掾氏では下妻清氏や小栗重成が頼朝方に立ったが、弘幹は義広の与党であったため戦後その所領の大半を没収され、村田荘は小山朝政に、茨城南郡は下河辺政義に、信太荘などは八田知家にそれぞれ与えられ、わずかに下妻荘のみが清氏の戦功によって大掾氏の元に残ったようである。 元暦元年(1184年)に頼朝は常陸の武士たちの帰伏を認め、弘幹はじめ常陸大掾氏はようやく鎌倉幕府の御家人となった。文治元年(1185年)鎌倉勝長寿院の落成供養に参列した随兵に常陸平四郎がいるが、弘幹のことか。常陸平四郎は建久元年(1190年)頼朝の上洛にも随行しており、建久3年(1192年)頼朝の庶子(後の貞暁)が仏門に入るために上洛する際、由比にあった平四郎の屋敷から出発している。同年、頼朝に次男・実朝が誕生した際、弘幹は北条義時,三浦義澄,佐原義連,小野成綱,安達盛長ら有力な御家人らに並んで護刀を献上しており、弘幹は兄の多気義幹を越えて頼朝やその妻・政子の側近となっていたようである。しかし翌建久4年(1193年)常陸守護の八田知家は多気義幹を讒言して失脚させ、また小栗重成もにわかに発狂して役職を失った。同年末には北条時政に害意を抱いていたとし、弘幹も知家によって討たれ、梟首となってしまった。弘幹の旧領・下妻荘は小山朝政に与えられ、その子孫が新たに下妻氏を称した。これによって常陸南部の大部分を八田知家が握ることになり、また常陸大掾氏の主流は多気氏系から吉田氏系の大掾資幹に移った。
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