H202:多気致幹 | 平 高望 ― 平 良望 ― 平 維幹 ― 多気致幹 ― 真壁長幹 | H204:真壁長幹 | ● |
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真壁長幹 | 真壁高幹 |
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多気直幹の4男として誕生。承安2年(1172年)、常陸国真壁郡真壁荘を領して真壁城を築き、真壁を姓とした。長幹は周辺の領主との争いに対処するため、真壁荘を当時、勢いがあった平家に寄進した。また、源頼朝の挙兵後も多くの常陸平氏と同じように様子見の態度を示していた。このため、真壁荘は平家没官領を経て北半分は鹿島神宮に寄進され、本所を鹿島神宮、領家を源頼朝(鎌倉幕府)とする関東御領となり、長幹は御家人として地頭の地位には任じられたものの、頼朝の配下である三善康清が預所に任じられたことで、その支配は大きく制約を受けることになった。また、南半分は常陸国の国衙領とされて真壁氏が地頭を務めている。文治5年(1189年)、奥州合戦に参加し、建久元年(1190年)の頼朝の上洛に供奉した。 |
高幹の名乗りは北条高時の偏諱を受けたものと考えられている。南北朝時代では北朝に属して転戦し、康永3年/興国5年(1344年)7月に足利尊氏から常陸真壁郡など9カ所の地頭職を軍功として宛がわれた。文和2年/正平8年(1353年)7月、尊氏の上洛に従って供奉し、翌年に死去。享年56。 |
真壁政幹 | 真壁広幹 |
貞和2年/正平元年(1346年)頃、高山寺便智院領美濃国小木曾荘の地頭でとして登場し、建武4年/延元2年(1337年)以来の検注勘料と年貢を高山寺に納めず、守護の土岐頼康に対しても弁明を行わなかったため、足利直義から検注勘料と年貢を高山寺に納めるように命じられている。観応2年/正平6年(1351年)、北朝に属して代官の森国幹を出羽国に出陣させた。この時に関する文書として着到状3通と軍忠状1通が残されているが、一連の文書によって政幹が陸奥国会津郡蜷河荘にある勝方村の地頭でもあったことが判明する。文和2年/正平8年(1353年)に死去。享年38。ただし、観応3年/正平7年(1352年)12月13日付で真壁小太郎政幹が嫡孫の孫太郎広幹に対して常陸国真壁郡山田郷の譲状を出しており、同譲状には広幹が「父子各別」になっているという文言が入っており、政幹の嫡男で広幹の父にあたる人物が南朝方であったために祖父から孫への継承になったこと、孫(広幹)が家督を継げる年頃であったことが推定される。また、別の文書からは政幹はこの時に小木曾荘も広幹に譲ったと推定される。 |
観応3年/正平7年(1352年)12月13日付で真壁小太郎政幹が孫太郎広幹に対して常陸国真壁郡山田郷の譲状が出された旨とその事情が記された文和5年/正平11年(1356年)作成の書状が残されている。この書状からは、広幹の父である某は敵の南朝方にいたこと、広幹は庶流(真壁高幹を惣領)の人物であることがうかがわれる。また、真壁氏の一族である真壁光幹という人物が土地の相博(交換)を行い、光幹が山田郷の土地を美濃国小木曾荘の土地と交換したが伝えられており、小木曾荘は真壁政幹が所領としていたことが知れる。政幹の後継者と見られる孫の広幹が光幹との交換相手と推測され、同時に先述の文書に記載された譲状には政幹が広幹に対して山田郷とともに小木曾荘も譲ることが記載されていたと推測されている。 |
真壁秀幹 | 真壁治幹 |
応永11年(1404年)12月15日に父から家督を譲られる。足利義持と足利持氏の室町幕府と鎌倉府の対立の際には義持に味方し、応永30年(1423年)2月26日に義持から常陸真壁郡の所領を安堵された。これを受けた秀幹は隣の領主である小栗満重とともに持氏を討伐すべく挙兵するが、足利持氏自ら率いる遠征軍の攻撃を受け、同年8月2日に小栗城と真壁城が同時に陥落して、満重は滅亡した(小栗満重の乱)。真壁氏は滅亡を免れたものの所領の多くを持氏に奪われたとみられる。翌年に死去。享年45。家督は子の慶幹が継いだが、持氏に追討されて消息不明となる。 |
父の尚幹(後に久幹と改名後、出家して真楽斎,道瑚と称する)が出家後も真壁氏の実権を握っていたこともあり、当主としての本格的活動は永正4年(1507年)の尚幹没後になる。
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真壁家幹 | 真壁久幹 |
真壁氏の系図に載せられている名前は宗幹であるが、同時代の史料から確認できる名前は家幹である。真壁氏の『当家大系図』に記された「宗幹」は後世の誤記で、正しくは家幹であったとされている。 |
戦国時代から安土桃山時代にかけての常陸国の国人領主。真壁郡真壁城主。小田氏,佐竹氏,後北条氏らの抗争を立ち回り真壁氏の勢力を拡大した。関八州古戦録などで鬼真壁として描かれる真壁氏幹とは、実際には久幹のことであるともされる。 |
真壁氏幹 | 真壁義幹 |
永禄年間に真壁氏当主となる。佐竹義重に早くから仕え、妹婿の梶原政景とともに対北条氏戦線の最前線に立つ。長さ2mもの木杖(筋金を鋲で打ち付けた樫木棒=金砕棒と記す)を振り回して戦場を駆け抜け、その秀でた武勇から「鬼真壁」と渾名され、恐れられたという。佐竹氏の主要な合戦のほとんどに参加し、真壁・筑波両郡に4,500石を与えられた。 |
佐竹氏家臣。真壁久幹の次男で氏幹の弟。父が佐竹義昭に臣従した際、義昭のもとで元服を行い、一字が与えられた。小田氏治との手這坂の戦いで活躍して、式部大輔の名乗りを許される。後に常陸国筑波郡に所領を与えられて兄から別家する。長男・房幹が兄の養子となっていたために、次男の重幹に家督を譲るが、後に氏幹,房幹ともに死去したために重幹が真壁氏の当主となった。佐竹氏の移封先である出羽国角館にて没する。 |