G743:佐々木信綱 | 源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 | G751:六角泰綱 |
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六角泰綱 | 六角頼綱 |
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建保元年(1213年)、近江源氏佐々木氏の佐々木信綱と川崎為重の娘のあいだの3男として誕生。元仁元年(1224年)、鎌倉幕府に出仕して検非違使,左衛門尉,壱岐守に任じられた。文暦元年(1234年)、父の隠居により近江佐々木荘の領地を始め、六角東洞院にある京都屋敷を譲られ、家督を相続して近江守護となった。 |
仁治3年(1242年)、佐々木泰綱の子として誕生。建長2年(1250年)12月3日に北条時頼邸で元服、時頼から偏諱を受けて頼綱と名乗り、その翌年から鎌倉幕府に出仕して左衛門尉,備中守に任じられた。建治元年(1275年)、京都若宮八幡宮社の新宮建築に当たり、御家人に費用の捻出が求められ、70貫の費用を提供した。 |
佐々木時信 | 六角氏頼 |
元徳2年(1330年)、後醍醐天皇の岩清水行幸の際には橋渡を務めている。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠木山に挙兵した元弘の乱では幕府方に従い鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加わり山門東坂本に攻め寄せており、捕縛された一宮尊良親王を預かっている。 |
近江六角氏(佐々木氏嫡流)当主。六角家は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父の時信が出家したため、氏頼は幼くして家督を継承して六角家当主となるも、その後の足利政権では京極家の風下に立つことになり、近江の守護職をめぐり京極家の佐々木道誉と一時争うも、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にもつとめている。氏頼は康永3年(1344年)には検非違使に任じられ、南朝軍との戦いにも参加するなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。 |
六角義信 | 六角満高 |
観応の擾乱で進退に窮して正平6年/観応2年(1351年)6月25日に出家した父から家督を譲られた。しかし幼少のため叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となり、その定詮が直義方につくと代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった。正平7年/文和元年(1352年)から正平8年/文和2年(1353年)まで短期間近江守護に補任され、正平9年/文和3年(1354年)に当主に復帰した父が近江守護に任命された。 |
父の死後、幼い満高に代わって佐々木氏傍流の京極高詮が父の猶子として家督を継いでいたが、天授3年/永和3年(1377年)に追放され、満高が家督を継いだ。3代将軍・足利義満に信任され、子・満綱の室に義満の娘を迎えている。義満の死後、足利義持が4代将軍になると六角氏と幕府との関係は悪化し、応永17年(1411年)の飛騨の乱では飛騨国への出陣命令を拒否していたのをきっかけに、応永17年12月21日(1411年1月15日)に一時守護を解任されて同族の青木持通が任ぜられたが、すぐに復帰している。
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六角満綱 | 六角政頼 |
南北朝時代,室町時代の武士。近江六角氏(佐々木氏嫡流)当主。六角満高の子。妻が足利義満の娘であることから足利義教の信任を受け、その援助を背景に比叡山と対立したが、嘉吉の乱で義教が暗殺されると、後ろ盾を失って領内は混乱した。将軍の側近として早くから活動していたため、家督は嫡男の持綱に譲っていたが、1445年、反対勢力に擁立された子の時綱によって持綱と共に滅ぼされ自刃した。 |
六角久頼の子であり、六角高頼の父と推定される人物(異説では高頼当人である)。幼名は亀寿又は亀寿丸。ただし、成人後の名前は確定されておらず、政勝,高貞ともされ、はっきりしない。近江守護。 |
六角持綱 | 六角政堯 |
六角満綱の嫡男として誕生。永享6年(1434年)、父が京極持高と共に室町幕府6代将軍・足利義教の延暦寺攻撃命令を受けると父と共に近江国内の延暦寺領を没収した。 |
叔父・六角久頼が憤死した後、その跡を継いだ従弟・亀寿丸(六角高頼または六角政頼)の後見人を務めたが、長禄2年(1458年)、室町幕府によって亀寿丸は追放され、近江守護に任命され六角氏の当主となった。しかし、2年後の長禄4年(1460年)に守護代・伊庭満隆の子を殺害したせいで政堯も廃嫡、家督は亀寿丸に戻された。 |
夢窓疎石 | |
臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。後醍醐に続き、武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。足利尊氏により全国に設立された安国寺・利生塔も夢窓疎石の勧めであったとされる。足利直義との対話を記録した『夢中問答集』は、信心の基本、仏道の要諦を指し示す、思想史上重要な書である。 |