宇多源氏

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六角泰綱 六角頼綱

 建保元年(1213年)、近江源氏佐々木氏の佐々木信綱と川崎為重の娘のあいだの3男として誕生。元仁元年(1224年)、鎌倉幕府に出仕して検非違使,左衛門尉,壱岐守に任じられた。文暦元年(1234年)、父の隠居により近江佐々木荘の領地を始め、六角東洞院にある京都屋敷を譲られ、家督を相続して近江守護となった。
 ところが、仁治3年(1242年)に父が死去すると、寛元元年(1243年)にかつて父から廃嫡された長兄の重綱が領地の配分をめぐって幕府に訴えを起こした。この訴えで泰綱は重綱に近江国内にある所領の一部を没収され、重綱に譲り渡されることとなる。ただし、家督に関しては泰綱の系統がそのまま相続することが認められた。
 宝治元年(1247年)、宝治合戦では、北条方につくも何らかの混乱があった模様で嫡男の経泰を廃嫡している。なお、経泰は夢窓疎石の祖父とされる。
 後に家督を子の頼綱に譲って隠居し、出家して生西と号した。建治2年(1276年)5月17日に死去。 

 仁治3年(1242年)、佐々木泰綱の子として誕生。建長2年(1250年)12月3日に北条時頼邸で元服、時頼から偏諱を受けて頼綱と名乗り、その翌年から鎌倉幕府に出仕して左衛門尉,備中守に任じられた。建治元年(1275年)、京都若宮八幡宮社の新宮建築に当たり、御家人に費用の捻出が求められ、70貫の費用を提供した。
 建治3年(1277年)の北条貞時の元服式に立ち会い、六波羅評定衆に加わった。近江に郡代を設置したり不入だった竹生島の寺社領徴税を行うなど守護権の強化も進めた。
 ところが、徳治2年(1307年)に興福寺と領土問題で対立、興福寺衆徒が神木を奉じて強訴する騒ぎに発展したため、徳治3年(1308年)7月に尾張国に配流され、2年後の延慶3年12月24日(1311年1月22日)に失意の内に死去。享年69。
 長男の頼明は弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達氏に与したとして既に廃嫡されており、他の息子達も早世したため、家督は末子の時信が継承した。 

佐々木時信 六角氏頼

 元徳2年(1330年)、後醍醐天皇の岩清水行幸の際には橋渡を務めている。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠木山に挙兵した元弘の乱では幕府方に従い鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加わり山門東坂本に攻め寄せており、捕縛された一宮尊良親王を預かっている。
 元弘3年(1333年)、後醍醐天皇流罪後も続いた反乱軍鎮圧では、摂津天王寺に戦陣している。六波羅探題が宮方についた足利高氏(尊氏)によって陥落されると、探題・北条仲時が近江で討死したという誤報を受けて宮方に投降した。
 幕府滅亡後の建武の親政では雑訴決断所の奉行人、南海道担当の七番局を務め、尊氏の新政離反にも従うが、足利政権下においては近江守護職を一時佐々木氏庶流の佐々木道誉に奪われるなど不遇を託つこととなり、出家して家督を子の氏頼に譲り、41歳で死去したという。

 近江六角氏(佐々木氏嫡流)当主。六角家は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父の時信が出家したため、氏頼は幼くして家督を継承して六角家当主となるも、その後の足利政権では京極家の風下に立つことになり、近江の守護職をめぐり京極家の佐々木道誉と一時争うも、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にもつとめている。氏頼は康永3年(1344年)には検非違使に任じられ、南朝軍との戦いにも参加するなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。
 足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱では導誉とともに将軍尊氏派に属していたが、観応2年(1351年)に将軍実弟直義派が有利となると直義方に降る。乱後には出家して崇永と名乗り、近江守護も辞して家督も子の義信に譲った。のち義信が夭折したため、京極氏から高経を猶子に迎え後見をつとめた。文和3年(1354年)には政界復帰し、近江守護に復したほか引付頭人も務めている。

六角義信 六角満高

 観応の擾乱で進退に窮して正平6年/観応2年(1351年)6月25日に出家した父から家督を譲られた。しかし幼少のため叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となり、その定詮が直義方につくと代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった。正平7年/文和元年(1352年)から正平8年/文和2年(1353年)まで短期間近江守護に補任され、正平9年/文和3年(1354年)に当主に復帰した父が近江守護に任命された。
 正平17年/貞治元年(1362年)12月2日に2代将軍・足利義詮の加冠により元服、義詮から偏諱(「義」の一字)を受けて義信と改名したが、正平20年/貞治4年(1365年)11月8日に17歳で急死した。
 六角氏には義信の異母弟の亀寿丸がいたが、まだ生まれたばかりであり、管領・細川頼之の命により父・氏頼の母方の従兄弟に当たる京極高詮(京極高氏の孫)を猶子に迎えたが、7年後に亀寿丸が元服して六角満高となると六角氏を継ぎ、高詮の近江守の任は解かれ京極氏に戻った。 

 父の死後、幼い満高に代わって佐々木氏傍流の京極高詮が父の猶子として家督を継いでいたが、天授3年/永和3年(1377年)に追放され、満高が家督を継いだ。3代将軍・足利義満に信任され、子・満綱の室に義満の娘を迎えている。義満の死後、足利義持が4代将軍になると六角氏と幕府との関係は悪化し、応永17年(1411年)の飛騨の乱では飛騨国への出陣命令を拒否していたのをきっかけに、応永17年12月21日(1411年1月15日)に一時守護を解任されて同族の青木持通が任ぜられたが、すぐに復帰している。
 応永23年(1416年)に亡くなり、満綱が家督を継いだ。
 幼少時から足利義満に近侍を許された愛童の1人であるが、余りに重用されているために満高を義満の弟とする説もある。

 

六角満綱 六角政頼
 南北朝時代,室町時代の武士。近江六角氏(佐々木氏嫡流)当主。六角満高の子。妻が足利義満の娘であることから足利義教の信任を受け、その援助を背景に比叡山と対立したが、嘉吉の乱で義教が暗殺されると、後ろ盾を失って領内は混乱した。将軍の側近として早くから活動していたため、家督は嫡男の持綱に譲っていたが、1445年、反対勢力に擁立された子の時綱によって持綱と共に滅ぼされ自刃した。 

 六角久頼の子であり、六角高頼の父と推定される人物(異説では高頼当人である)。幼名は亀寿又は亀寿丸。ただし、成人後の名前は確定されておらず、政勝,高貞ともされ、はっきりしない。近江守護。
 父の久頼の没後、従兄弟の六角政堯(六角時綱の子)の後見を受けるものの、のちに幕府の思惑と政堯の策略により守護職を剥奪される。のち政堯の失脚により守護に返り咲いたが、まもなく応仁の乱が勃発し、亀寿(政頼)は西軍に所属した。戦乱により領内も混乱し、六角氏も北近江の京極氏の力を背景に政堯,政信(六角持綱の子)が東軍につくなど分裂状態となった。一族の六角六郎や伊庭氏,山内氏の協力もあり亀寿(政頼)は1471年に政堯を自刃させるなど抗争に勝ち抜き六角氏の家督を確保した。応仁の乱終了後に六角氏が将軍・足利義尚の討伐を受けた際には、子の高頼と共に伊賀に逃れるとされる。
 室町時代後期から戦国時代初期の六角氏の系図ははっきりしない部分が多いため、応仁の乱の際に活動した「六角亀寿」(六角亀寿丸)と記録のある人物が誰に比定されるかは諸説ある。

六角持綱 六角政堯

 六角満綱の嫡男として誕生。永享6年(1434年)、父が京極持高と共に室町幕府6代将軍・足利義教の延暦寺攻撃命令を受けると父と共に近江国内の延暦寺領を没収した。
 永享12年(1440年)、義教の椀飯を務めた。嘉吉元年(1441年)、嘉吉の変で義教が殺害され、続いて発生した嘉吉の徳政一揆で責任を取らされた父が近江守護を解任、代わって守護に任命された。
 文安元年(1444年)、家臣団から無道を訴えられ、弟・時綱が一揆を結成した家臣団に擁立され、反乱を起こされる事態になった。文安2年(1445年)、一揆に攻められ父と共に自刃した。
 文安3年(1446年)、僧侶となっていた弟・久頼が還俗し、幕府の命令を受けた京極持清と共に時綱一派を討ち取り、久頼が当主となった。しかし、一連の騒乱で六角氏の権力は大幅に後退、反対に守護代・伊庭氏の権勢が強まったばかりか、京極氏の干渉も受けるようになり、以後の六角氏は領国支配に苦しむことになる。

 叔父・六角久頼が憤死した後、その跡を継いだ従弟・亀寿丸(六角高頼または六角政頼)の後見人を務めたが、長禄2年(1458年)、室町幕府によって亀寿丸は追放され、近江守護に任命され六角氏の当主となった。しかし、2年後の長禄4年(1460年)に守護代・伊庭満隆の子を殺害したせいで政堯も廃嫡、家督は亀寿丸に戻された。
 応仁の乱が勃発すると亀寿丸は西軍についたが、政堯は東軍に招かれて京極勝秀と共に近江の六角氏の本拠地観音寺城を陥落させ、東軍によって近江守護に再任されたが、文明元年(1469年)に亀寿丸が京都を出て観音寺城奪還に向かうと、東軍は政堯を解任、近江守護に勝秀の父である京極持清を任じた。
 だが、翌文明2年(1470年)に持清が死去、勝秀は持清より先に没していたために、京極氏では持清の嫡孫・孫童子丸を擁立した3男・政経と高清派の次男・政光が争い(京極騒乱)、京極氏は東西両軍に分かれて弱体化した。政堯は政経と共に東軍に留まり、西軍に寝返った政光・高清・亀寿丸と対立し、文明3年(1471年)の孫・童子丸死後に三度目の近江守護に任命されたが、同年10月に亀寿丸に敗れ、戦死した。
 養子の虎夜叉が近江守護に任命されたが、京極騒乱に巻き込まれ、文明5年(1473年)に守護職を政経に奪われてしまった。もう1人の養子・虎千代は明応元年(1492年)に長享・延徳の乱で近江から逃亡した六角高頼に代わって幕府から近江守護に任命されたが、翌明応2年(1493年)の明応の政変で後ろ盾を失い、没落した。佐々成政は政堯の後裔と伝える。 

夢窓疎石

 臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。後醍醐に続き、武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。足利尊氏により全国に設立された安国寺・利生塔も夢窓疎石の勧めであったとされる。足利直義との対話を記録した『夢中問答集』は、信心の基本、仏道の要諦を指し示す、思想史上重要な書である。
 禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。後醍醐帝の鎮魂のために建立された天龍寺の造営にあたっては、直義との協議のもと元に天龍寺船を派遣してその儲けによって造営費用を捻出するなど、商売人としての才覚もあった。
 幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動?)で甲斐国に移住する。弘安6年(1283年)に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学ぶ。正応5年(1292年)に奈良の東大寺で受戒する。その後、京都建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。無隠からは「智曤」の法諱を安名されたが、のち法諱を「疎石」に改名し、道号を「夢窓」と自称した。鎌倉へ赴き、東勝寺の無及徳詮、建長寺の葦航道然、円覚寺の桃渓徳悟に学んだが、桃渓の指示で再び建長寺に戻って痴鈍空性に師事するが、結局は帰京して、禅宗における最初の師である建仁寺の無隠円範に再び参じた。その後は正安元年(1299年)8月に元から渡来し、のち鎌倉建長寺に移った一山一寧のもとで首座を勤めるも嗣法には及ばなかった。嘉元元年(1303年)に鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び、最終的に嘉元3年(1305年)10月に至って浄智寺で高峰から印可を受けた。
 正中2年(1325年)、後醍醐天皇の要望により上洛。勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌嘉暦元年(1326年)には職を辞し、かつて鎌倉に自らが開いた瑞泉寺に戻り徧界一覧亭を建てた。北条高時に招かれ、伊勢国で善応寺を開いた後に鎌倉へ赴き、円覚寺に滞在。高時や北条貞顕からの信仰を得る。元徳2年(1330年)には甲斐に恵林寺を開き、再び瑞泉寺に戻った元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行った。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も疎石を師と仰いだ。翌年には再び南禅寺の住職となる。建武2年(1335年)、後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられた。
 のち、疎石は足利家の内紛である観応の擾乱では双方の調停も行い、この間に北朝方の公家や武士が多数、疎石に帰依した。後醍醐天皇の死後、疎石の勧めで政敵であった尊氏は天皇らの菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し、利生塔を設置した。また、京都嵯峨野に天龍寺を建立し、その開山となった。
 生涯に数多くの弟子を持ち、当時の五山中最大の派閥だった。生前に夢窓国師,正覚国師,心宗国師,死後に普済国師,玄猷国師,仏統国師,大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、「七朝帝師」と称される。
 正平6年/観応2年9月30日(1351年10月20日)に入滅、享年数え77。