宇多源氏

G751:六角泰綱  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 ― 山内信詮 G754:山内信詮

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横田高松 横田康景

 武田の五名臣の一人。『甲陽軍鑑』に拠れば、高松は元々は近江国甲賀郡の出身で、佐々木氏の一族で六角氏の家臣であったとされる。同書においては時期や事情は不明であるが、武田信虎の代に甲斐国に入り武田氏に仕えたとし、弓矢巧者で、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなり、各地で戦功をあげたという。
 確実な記録においては晴信期に本格化した信濃侵攻において活躍が見られ、天文15年(1546年)8月の信濃国佐久郡志賀城攻めにおいて、関東管領の上杉憲政が派遣した後詰の軍勢を撃退したという。
 翌天文17年2月14日(1548年)の上田原の戦いで板垣信方,甘利虎泰の両宿将を失った信玄は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城を包囲した。高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍はやむなく退却を始めるが、ここで村上軍が退却する武田軍に襲い掛かり大混乱に陥る。世に言う砥石崩れであるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支えて村上軍を一手に引き受けて戦死する(享年64とされる)。その死は信玄を嘆かせ、後に近習の者に「武篇の者になろうとするなら、原美濃(虎胤)、横田備中(高松)のようになれ」と言い伝えたと言われる。

 

 甲斐武田氏の家臣。足軽大将。『甲陽軍鑑』に拠れば、父は下総国千葉氏の一族で、甲斐国に土着し武田氏に仕えたという足軽大将・原虎胤とされる。
 天文19年(1550年)の砥石城攻め(砥石崩れ)では武田家足軽大将である高松が戦死したために、横田高松の婿養子になり、家督を継いで武田晴信(信玄)に仕えた。『軍鑑』によれば足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられていたという。
 永禄10年(1567年)8月に義信事件を受けて、信玄が家臣団に提出させた下之郷起請文にその名を連ねている。
 武田信玄の没後は勝頼に仕えた。天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで戦死した。享年51。跡を5男の尹松が継いだ。 

横田尹松 横田松房

 天文23年(1554年)、横田高松の娘婿・横田康景(綱松)の5男として誕生。始め武田信玄に仕え、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加した。天正3年(1575年)5月に父が長篠の戦いで戦死したため、家督を継いで信玄の子・武田勝頼に仕え、足軽大将に抜擢された。
 天正7年(1579年)8月から、横田尹松は岡部元信と共に遠江国の高天神城の守将に任じられた。軍艦ともされる。徳川軍によって城を包囲された時、武田軍の高天神城では城将の岡部元信ら皆の連名で援軍派遣を甲斐の武田勝頼に要請しているが、横田尹松だけは密かに、兵力の温存のためにも「高天神城は捨てるべき」といった内容の別書状を出している。天正9年(1581年)3月、徳川軍との激しい戦闘の末、高天神城の将兵は皆が討ち死にし、捕らえられた者も処刑され、高天神城は陥落・落城した。横田尹松は馬場平から脱出に成功し、小笠山を経て甲斐に帰還して高天神城の落城を武田勝頼に報告した。この時、通ったとされる道が「甚五郎抜け道」で「犬戻り猿戻り」という名前が付けられている。落城の際の激戦中に徳川軍中を一騎で突破しようとしていた武田方の武者を離れた位置から見ていた家康は、「あのような者に深入りして捕縛しようとすると味方の損害が増えるため、あの武者には手を出すな」と使番を通して連絡させた。これにより道が開けられ、騎馬武者は徳川陣を駆け抜けて行った。これが20代後半の横田尹松であった。『甲陽軍鑑』に拠れば、無事に戻ってきた横田尹松を武田勝頼が誉め、慰労を兼ねたか太刀を与えようとしたが、横田尹松は「祖父の原美濃も横田備中も、父の十郎兵衛も勝って褒美を貰ったことはあるが、自分が負け帰って褒美を貰ったのでは筋がたたない」と言って太刀を返したと伝わる。 
 また、高天神城の城将だった頃、武田への降伏に反対して前城主・小笠原信興に幽閉され、引き続き武田方の時代も7年間捕虜になっていた徳川家臣・大河内政局(源三郎)の義に感じ、様々な配慮をしていたという。
 天正10年(1582年)、徳川家康と織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、横田尹松は徳川家康の家臣となり、使番・軍監に任じられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには、徳川家康本陣に使番として参陣した。江戸幕府開幕後は横田尹松は旗本として5000石を領し、大身となり、大坂の陣に参陣した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、敵の鉄砲攻撃が激しい陣を視察しようとする徳川家康に、横田尹松が「より激しい場所がある」と安全な場所を進言し、徳川家康を難から逃したという逸話が残る。
 寛永12年(1635年)7月5日に死去。享年82。
 その後の横田氏は横田述松が継いだ。その述松を経た横田由松は側衆となって従五位下・備中守に叙任し、さらに横田栄松を経て横田準松(側衆・従五位下筑後守)のとき、加増されて9500石を領し旗本最高位となった。

 江戸時代中期の旗本・火付盗賊改方。官位は従五位下・大和守。延享元年(1744年)、横田尹松の血をひく使番横田松春の子として誕生。書院番士から中奥番士,西ノ丸小十人組頭,西ノ丸目付と昇進し、天明4年(1784年)、御手先弓頭,火付盗賊改に就任する。
 歴代の火付盗賊改は苛烈な尋問で恐れられたが、松房も中山直守や藤懸永直に匹敵する峻厳な取り調べを行い、人々に恐れられた。横田は横田棒と呼ばれる拷問道具を発案し拷問に使用した。横田棒は石抱と併用して使われ、正座して石を抱く囚人の折り曲げた脚の合間に挿入された。正座した膝の上に嵩む石と、脚の合間の棒に挟まれた脚の骨を砕き、皮膚を破いて流血させ、塗炭の苦しみを与えて自白を促す目的で使用されたが、負担に耐え切れずに囚人が死亡すること枚挙に暇が無く、あまりに死者が出すぎたため、横田棒の使用は遂に禁止された。毎年夏になると、拷問所を兼ねた横田の屋敷からは異臭が湧出し、近所の旗本達は皆屋敷変えを要望したという。
 天明5年(1785年)に作事奉行に昇進し、併せて大和守に叙任された。しかし火付盗賊改の頃同様、矯激な素行が多かったため、天明7年(1787年)に新番頭に左遷された。寛政12年(1800年)、死去。