戦国時代から安土桃山時代にかけて、青蓮院流(御家流)の能書家として高名であった人物である。賢文の子孫は江戸幕府に仕え、旗本として数家を立てている。 『寛永系図』では、この建部家は近江源氏佐々木氏の流れを汲み、もとは伊庭氏を称していたが、近江国神崎郡建部郷に住したために建部氏を称したとされている。ただし、佐々木氏との具体的な接続は記されていない。末裔の建部賢明が正徳5年(1715年)に編纂した『六角佐々木山内流建部氏伝記』(以下『建部氏伝記』)によれば、佐々木時信の3男・山内信詮が始祖で、信詮の孫で義重の子の詮秀が建部氏に改めたという。『寛政重修諸家譜』は建部家から提出された『建部氏伝記』に依拠しているが、建部氏の嫡流である源八郎秀明は六角家滅亡後に織田信長に仕え、天正4年(1576年)に石山合戦で戦死したために絶えたという。 賢文は、もともと近江の六角義賢に仕えていたが、のちに豊臣秀吉に仕えた。賢文の3男・建部昌興も能書家で伝内の名を継ぎ、徳川家康,徳川秀忠に右筆として仕えた。「建部伝内」の書法は「伝内流」と称されて一流派をなした。 昌興の子・直昌も「伝内」を称して右筆を務めたが、直昌の嫡子・昌孝は大番に転じ、1000石の旗本となっている。建部氏一族からは賢豊,直恒,昌英,昌勝らが右筆として幕府に仕えてそれぞれ家を立てた。
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小さい頃から数学に興味を持ち1676年(延宝4年)に関孝和の門人となり、1719年(享保4年)、将軍徳川吉宗の信頼を得て『日本総図』を作る。関孝和の業績の解説書を複数著作した。関は沢口一之の『古今算法記』の遺題(未解決問題)を自らの創始した点竄術を駆使して解決し、その結果を『発微算法』にまとめた。しかしこの本は省略が著しく多く理解が困難で、特に関西の数学者から正当性に疑いの声が上がっていた。建部は『発微算法演段諺解』で変数消去の過程を丁寧に解説し、その不備を補った。また関孝和と兄の建部賢明ら3人で著した『大成算経』全20巻は、当時の和算の集大成となる労作である。 独自の業績としては円周率に関連した一連の研究が最も重要で、後に円理の発展の基礎になった。まず古来からある正多角形で円を近似する方法に累遍増約術を適用し、円周率を41桁まで正しく求めた。ここでは関孝和の手法に比べてはるかに少ない計算で、精度を大いに改善している。これは世界的に見ても数値的加速法の最初期の例だった。なおルイス・フライ・リチャードソンが同じ方法をリチャードソンの補外として提案するのは1910年(明治43年)頃である。また、円周率の二乗を求める日本初の公式を考案した。 次に賢明の発見した零約術(連分数展開)を用い、極めて精度がよい円周率の近似分数を見出した。また微小な円弧の長さをその矢の長さで数値的に冪級数展開した。この際、数値計算で得た係数を零約術で処理して、正しい係数にたどり着いている。これは逆三角関数 arcsin2 のテイラー展開に相当するが、円弧の長さを計算するアルゴリズムという方が実態に近い。後に不完全な論法ながら、この数値的結果を正当化した。これは和算初の冪級数展開で、後の関流での円理の発展の基礎となった。ちなみに同じ結果をレオンハルト・オイラーが得たのはその15年後である。また同じ1722年(享保7年)に京阪の和算家・鎌田俊清が『宅間流円理』で sin, arcsin の冪級数展開を発表しているが、両者の影響関係は不明である。 その他、指数1/2の二項級数やディオファントス方程式の近似解法を示すなど、優れた業績を残している。 彼はまた、和算家には珍しく数学の方法論についても多くを論じている。上述の『綴術算経』では数値計算と帰納に基づいた数学の方法論を示し、また無限の概念を「不尽」という言葉を用いて考察している。 1720年(享保5年)頃に、日本人として初だとされる三角関数表である『弧率』もしくは『算歴雑考』を著した。 現在日本数学会では、若手の数学者を対象とする建部賢弘特別賞,建部賢弘奨励賞を設けている。
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