<皇孫系氏族>景行天皇後裔

TE03:建部光頼  建部穂並乃君 ― 建部光頼― 建部詮秀 TE04:建部詮秀

 

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建部賢文 建部賢弘

 戦国時代から安土桃山時代にかけて、青蓮院流(御家流)の能書家として高名であった人物である。賢文の子孫は江戸幕府に仕え、旗本として数家を立てている。
 『寛永系図』では、この建部家は近江源氏佐々木氏の流れを汲み、もとは伊庭氏を称していたが、近江国神崎郡建部郷に住したために建部氏を称したとされている。ただし、佐々木氏との具体的な接続は記されていない。末裔の建部賢明が正徳5年(1715年)に編纂した『六角佐々木山内流建部氏伝記』(以下『建部氏伝記』)によれば、佐々木時信の3男・山内信詮が始祖で、信詮の孫で義重の子の詮秀が建部氏に改めたという。『寛政重修諸家譜』は建部家から提出された『建部氏伝記』に依拠しているが、建部氏の嫡流である源八郎秀明は六角家滅亡後に織田信長に仕え、天正4年(1576年)に石山合戦で戦死したために絶えたという。
 賢文は、もともと近江の六角義賢に仕えていたが、のちに豊臣秀吉に仕えた。賢文の3男・建部昌興も能書家で伝内の名を継ぎ、徳川家康,徳川秀忠に右筆として仕えた。「建部伝内」の書法は「伝内流」と称されて一流派をなした。
 昌興の子・直昌も「伝内」を称して右筆を務めたが、直昌の嫡子・昌孝は大番に転じ、1000石の旗本となっている。建部氏一族からは賢豊,直恒,昌英,昌勝らが右筆として幕府に仕えてそれぞれ家を立てた。

 

 小さい頃から数学に興味を持ち1676年(延宝4年)に関孝和の門人となり、1719年(享保4年)、将軍徳川吉宗の信頼を得て『日本総図』を作る。関孝和の業績の解説書を複数著作した。関は沢口一之の『古今算法記』の遺題(未解決問題)を自らの創始した点竄術を駆使して解決し、その結果を『発微算法』にまとめた。しかしこの本は省略が著しく多く理解が困難で、特に関西の数学者から正当性に疑いの声が上がっていた。建部は『発微算法演段諺解』で変数消去の過程を丁寧に解説し、その不備を補った。また関孝和と兄の建部賢明ら3人で著した『大成算経』全20巻は、当時の和算の集大成となる労作である。
 独自の業績としては円周率に関連した一連の研究が最も重要で、後に円理の発展の基礎になった。まず古来からある正多角形で円を近似する方法に累遍増約術を適用し、円周率を41桁まで正しく求めた。ここでは関孝和の手法に比べてはるかに少ない計算で、精度を大いに改善している。これは世界的に見ても数値的加速法の最初期の例だった。なおルイス・フライ・リチャードソンが同じ方法をリチャードソンの補外として提案するのは1910年(明治43年)頃である。また、円周率の二乗を求める日本初の公式を考案した。
 次に賢明の発見した零約術(連分数展開)を用い、極めて精度がよい円周率の近似分数を見出した。また微小な円弧の長さをその矢の長さで数値的に冪級数展開した。この際、数値計算で得た係数を零約術で処理して、正しい係数にたどり着いている。これは逆三角関数 arcsin2 のテイラー展開に相当するが、円弧の長さを計算するアルゴリズムという方が実態に近い。後に不完全な論法ながら、この数値的結果を正当化した。これは和算初の冪級数展開で、後の関流での円理の発展の基礎となった。ちなみに同じ結果をレオンハルト・オイラーが得たのはその15年後である。また同じ1722年(享保7年)に京阪の和算家・鎌田俊清が『宅間流円理』で sin, arcsin の冪級数展開を発表しているが、両者の影響関係は不明である。
 その他、指数1/2の二項級数やディオファントス方程式の近似解法を示すなど、優れた業績を残している。
 彼はまた、和算家には珍しく数学の方法論についても多くを論じている。上述の『綴術算経』では数値計算と帰納に基づいた数学の方法論を示し、また無限の概念を「不尽」という言葉を用いて考察している。
 1720年(享保5年)頃に、日本人として初だとされる三角関数表である『弧率』もしくは『算歴雑考』を著した。
 現在日本数学会では、若手の数学者を対象とする建部賢弘特別賞,建部賢弘奨励賞を設けている。 

土田秀久 土田政久

 美濃国可児郡土田郷の土田屋敷で生まれる。父と同様に親類筋である土岐氏庶流の明智氏に仕え、美濃守護の土岐氏や尾張守護の斯波義寛にも従った。
 延徳3年(1491年)には、尾張守護の斯波義寛に従い近江国へ六角征伐(長享・延徳の乱)に、尾張勢の織田氏,前野氏,生駒氏と共に秀定・秀久父子も加わり参陣した。
 当時の土田氏は、美濃の豪族のため主筋は明智氏や土岐氏に当たるが、所領が美濃国可児郡土田郷で尾張国と隣接していたため、縁戚関係のある織田氏や生駒氏に従って出兵した土田氏の複雑な実状が垣間見える。秀久の頃には、美濃土田で3万石の石高があったとされ、土田村だけでなく周辺一帯を支配していたことが窺える。
 秀久の室は、生駒家広の娘で泰久,政久,久通,土田氏御前(織田信秀室)を産んだとされるが、秀久と家広が対立したことが原因で離縁する。大永・享禄年間(1521〜32年)には秀久の記録がなく、天文2年(1533年)に生駒氏が土田に富春庵を創建していることから、それ以前に亡くなったと思われる。
 生駒氏が秀久と離縁後に、生家の小折生駒家で産んだのが土田久通(生駒久道)と云われ、後に小折長桜に居を構えた。
 土田城があった土田山の山麓にある渡り田の地には、室町時代の宝篋印塔や五輪塔が数基残っており、土田秀定,秀久はじめ土田一族の墓とされる。地元では、土田御前の生まれた屋敷跡(土田屋敷)とも伝承されている。
 美濃土田氏は、木曾義仲の四天王と謳われた根井行親の末裔と伝わる。根井行親の子孫は、南近江守護・六角氏の家臣として仕え文明年間(1469〜1486年)の頃に、近江国蒲生郡から美濃国可児郡の木曽川河畔にある土田村に移住した。土田山の山麓にある渡り田の大井戸渡しを支配して屋敷を築き、土田村の他にも田畑を開墾して領地を増やしていき土田(どた)姓を名乗り土豪となる。後に、土田秀定は明智氏の娘婿となり、明智氏の家臣として美濃国可児郡土田村の所領を安堵され、更に勢力を拡げていき文明・明応年間(1469〜1501年)に土田城を築く。
 一方、尾張国海東郡土田郷(清洲近辺)に起こった尾張土田(つちだ)氏は別流の一族といわれる。 後に美濃土田氏,尾張土田氏は、共に織田弾正忠家に仕えるが、両氏が縁戚関係を結んだかは不明。

 一説には、生駒親重と同一人物とも言われている。土田御前の父とされている。織田信秀は娘婿、織田信長,お市の方は孫にあたる。
 土田氏の一族は、美濃国可児郡土田の豪族とも、尾張国海東郡土田の豪族とも言われる。元々は近江に派生し、六角氏の支族である山内家の庶流に属するらしい。土田秀久は尾張小折郡の土豪・生駒家広の娘を嫁に迎えたが、後に離縁して実家の生駒家に返した。しかし娘は既に第二子を身籠もっており、尾張の生駒家で産まれたのが政久であるという(否定する説もあるが)。
 政久は長じてより織田信康に仕え、息子・親重を生駒豊政(家広の子)の養子にした。因みに、豊政には家宗と言う実子がいたが、その家宗の娘がまた美濃の土田弥平次に嫁いだ。しかし弥平次の戦死により実家に戻った。
 江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の高祖父にあたる。