宇多源氏

G751:六角泰綱  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 ― 六角高頼 G752:六角高頼

 

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六角高頼 六角氏綱

 南近江の戦国大名。六角政頼?(又は六角久頼)の子。足利義高(のちの義澄)に一字を賜う。
 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では、西軍(山名宗全側)に属した(ただし、応仁の乱の際に活動した亀寿丸は高頼とは別人(高頼の父)だとも)。応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して公家・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、これがかえって配下の国人衆や時の将軍・足利義尚や足利義材(義稙)らの反発を受け長享元年(1487年),延徳3年(1491年)と二度にわたる追討を受ける羽目になってしまった(長享・延徳の乱)。そして、一時は領地を捨てて甲賀山中に逃亡している。だが、やがて足利氏との関係修復に努め、都の騒乱から避難してきた義稙や足利義澄らを庇護している。永正3年(1506年)、子の氏綱に家督を譲って隠居した。その氏綱は自身に先立って死去したが、同じく僧籍にあった定頼を還俗させて家督を継がせている。永正17年(1520年)、59歳で死去した。
 ちなみに生年には異説も多く、一説には永享4年(1432年)生まれとも言われている。

 

 明応元年(1492年)、六角高頼の嫡男として誕生。幼名は亀王丸。永正2年(1505年)、室町幕府11代将軍・足利義澄の参内に随従し御所唐門の警備を担当する。北近江の京極氏の内紛に際しては京極材宗を支援し、その勢力を削いだ。
 永正3年(1506年)、父の隠居により家督を継ぐ。同年、管領・細川政元の養子・澄之と澄元が争い始めると軍を率いて上洛、永正4年(1507年)まで在京したが、同年に政元が暗殺される(永正の錯乱)と帰国、大内義興に擁立された足利義稙が帰洛して将軍に再任されると永正8年(1511年)義稙に助行の太刀と栗毛の馬・銭三千疋を献上して忠誠を誓っている。以後、六角氏は一貫して義稙系の足利将軍に忠誠を誓うことになる。一方で近江に所領を持つ奉公衆(佐々木一族が多かった)を家臣化するなど、自家の勢力の拡大も図っている。
 内政においては応仁の乱以降の戦乱で主戦場となった近江の復興に努め、先祖・六角氏頼の開基である近江永源寺の修理料を寄進、段銭賦課の禁止など保護して再興させている。永正13年(1516年)頃から京における戦いで受けた戦傷のため病床にあり、相国寺僧であった弟の吉侍者(後の六角定頼)が僧籍のまま陣代として政務の一部を代行した。
 氏綱の健康状態については、永正11年(1514年)以降、弟の承亀(定頼)が六角家中に文書を発給していることや、永正14年(1517年)8月の母親の七回忌を最後に記録から氏綱の姿が消えることから、長く患っていた可能性があるとの指摘がある。
 永正15年(1518年)7月9日、父に先立って27歳で死去。六角氏の家督は吉侍者が還俗して定頼と改名して継いだが、子・義実が継ぎ、定頼は陣代となったとする説も一部にある。

六角義実 六角義秀

 六角氏嫡流の六角氏綱の子。母は足利義澄の妹。別名に隆頼,義久。出家して宗能と号す。
 大膳大夫,近江守護,権中納言に任ぜられたと伝わるが不詳。『鹿苑日録』、沙々貴神社所蔵の佐々木系図では、将軍・足利義稙の猶子となり従三位参議に任ぜられたとされる。『鹿苑日録』においては天文5年(1536年),天文8年(1539年)5月の条に江州宰相と記されており、参議への叙任が裏付けられる。実名は六角氏重臣の筆頭格『両藤』の一角である進藤久治,山中久俊・深尾久吉らの重臣、勢力下の浅井久政の偏諱から『義久』であるとする説がある。『鹿苑日録』にも義実に比定される人物に義久との名を当てており、実際には義久と名乗っていた可能性が高い。このほか「高頼」・「隆頼」と名乗っていた形跡も見られる。
 その治世中、一貫して足利将軍家の庇護者として行動し、京を追われた足利義晴を領国近江に保護し、大永6年(1526年)には浅井亮政退治を青木社に祈願するなどの行動が見える。天文3年(1534年)、観音寺城内の桑実寺で行われた将軍・足利義晴と五摂家・近衛尚通の息女・慶寿院との婚礼に際して父・氏綱とともにお色直しに参上した。天文6年(1537年)出家して宗能と号す。幕府内では将軍に次ぐ地位にあり、天文8年(1539年)には養父 である足利義稙の十七回忌法要を主催し、堺政所・足利義維を牽制、将軍就任を阻止した。兄弟に朝倉義景,仁木義政がいる。
 没年は天文15年(1546年)もしくは天文18年(1549年),弘治3年(1557年)などと言われ判然としない。

 六角氏嫡流の六角氏綱の子(又は氏綱の子である六角義実の子)。正室は織田信広の娘(信長養女)。官途は参議,修理大夫。幼名は日吉丸,亀寿丸と伝わる。
 歴史学の一般的な通説においては、氏綱の弟の六角定頼が家督を継承し、以降定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられている。以下の記述は、六角氏の家督は氏綱の子孫に受け継がれたとする異説を前提とした上のものになっている。
 天文14年(1545年)、元服して義秀と名乗り室町幕府に出仕する。この少し後、自ら火薬の製法を学ぶなど鉄砲の導入に積極的だった将軍・足利義輝の命令を受け、近江国友村に庇護を与えて組織的に鉄砲を製造させている。以後、国友村は豊臣政権の時代まで鉄砲の産地として天下に知られ、中央の管理と庇護を受けることとなる。 天文22年(1553年)、義輝と三好長慶が合戦に及んだ際に負傷し、以後は病身となり六角義賢が陣代を務めたが、義賢の専権はやがて観音寺騒動を引き起こし、それが引き金となって幕府崩壊の危機を招くまでになる。
 永禄8年(1565年)、この義賢の専権が遠因となって将軍・義輝が暗殺されると、義輝の弟一条院覚慶を庇護。織田信長の同母妹・お市の方と浅井長政の婚礼成立に周旋する(周旋したのは木下藤吉郎という説もある)など、外交を駆使し織田・浅井・朝倉ほかの支持勢力を糾合して義輝を暗殺した松永・三好氏に対抗、のみならず覚慶を領内に庇護し足利義昭として還俗させ、将軍・足利義栄の対抗馬として擁立することに成功している。病身となり武将としての行動には支障を来たしたものの、完全に病臥するほどではなかったようである。 その後は家中の分裂・混乱に翻弄され、永禄11年(1568年)信長が上洛すると、これに呼応し、信長の指揮下に入る。その後の動向は不明であるが、信長時代に没したという。没年として永禄12年(1569年)が伝わる。
 なお、放浪時代の秀吉を召抱えたという説がある。また当時元吉と名乗っていた藤吉郎に偏諱を与えて秀吉と名乗らせた事跡があり、秀吉の口から語られている。

六角義郷 六角氏郷

 六角義秀の長男(六角氏綱の長男、義秀の弟とする説もある)。母は織田信広の娘千代君。別名に義康。幼名は龍武丸という。官位は近江守,左兵衛佐,侍従。のちに出家し入道台岩。
 歴史学の一般的な通説においては、氏綱の弟の六角定頼が家督を継承し、以降は定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられている。以下の記述は、六角氏の家督は氏綱の子孫に受け継がれたとする異説を前提とした上のものになっている。
 幼少時には一時・足利義昭の猶子とされ、若屋形と呼ばれた。織田信長は一時彼か義昭の息子を足利将軍にすることを考えていたともいう。天正12年(1584年)9月1日、豊臣秀吉が近江の旗頭を召し出した折、箕浦城から呼び出されて秀吉に仕える(召し出したのは豊臣秀次であるとの説もある)。翌13年、一万石を与えられて六角氏を再興した。14年には父義秀が参議であったことから秀吉のはからいで侍従・少将に任じられ、豊臣姓の称号をも授かる。以後、豊臣の準一門として九州征伐にも兵四百を率いて織田信秀らとともに参陣、小田原征伐にも従軍し、陣中で茶会に招かれている。文禄の役でも秀吉直属軍の第一陣として出陣、弟で養子の八幡山秀綱とともに肥前名護屋城に「御留守在陣衆」として在番している。 秀吉・秀次との縁故や母が織田信広の娘であったことが影響してか、早々に累進を重ねて近江八幡12万石の大名となり、極めて優遇された。
 文禄4年(1595年)、秀次事件に際しては秀次近習となっていた家臣の勧めで家臣・鯰江権佐の娘を秀次の側室に献上したことから連座して改易されたが、若年であったため身柄は捕縛されることはなく、秀吉から諸国居住勝手を許された。彼と共に取り立てられた六角系家臣の多くが秀次の直臣となっており、秀次事件で切腹した熊谷大膳,木村重茲らはその代表格である。秀吉の死に際し、遺物として大兼光の太刀を拝領したが、この太刀は祖父・義秀が秀吉へ諱字を与えた時に贈ったものであり、当時の公家などは奇縁を不思議がった。
 関ヶ原の戦いにおいては、石田三成からの誘いを拒絶する。増田長盛はこれに激怒し、義郷を討ち果たすべきと三成に進言したが、三成は「義郷を討てば近江の民心が離れる」との理由で義郷を咎めなかった。戦後は徳川家康から召し出されたが、西軍に加担しなかったのは東軍に内通していたためだと謗られることを嫌い、これをも拒絶している。家康はこれを褒め「今の世の良将である」と語ったという。 以後は武家としての動きはなく、公家として豊臣秀頼に伺候、六角義賢・次男で秀頼家臣であった佐々木高盛と交流するなどの活動が見える。晩年の元和7年(1621年)、織田秀信の娘との間に儲けた末子・六角氏郷が家督を相続した。元和9年(1623年)逝去。享年47と伝わるが、これは1577年生まれとなり、父・義秀の1569年没と辻褄があわない。 

 六角氏嫡流の六角義郷の嫡男。幼名は龍武丸。官位は従四位下中務大輔,兵部大輔,左衛門督。経歴の信憑性は歴史学において長らく疑問視されてきたが、一部にその存在を推定させる文書や系図類が存在し、それにより実像の解明がなされつつある。
 大名ではなかったが、『寛政重修諸家譜』においても佐々木六角氏の嫡流として認められており、家臣を従え武士として京に暮らしていた。教養深く言うべきことを言う性質で、相国寺住持・愚渓等厚,汝舟妙恕とも交流があり、寛文3年(1663年)9月晦日には愚渓と夢窓国師の降誕年代について論じ、当時信じられていた説の誤りを正している。佐々木六角氏の正統として佐々木氏本家系図「金泥の巻き」を所持、四位の位階を持ち、後水尾天皇から院昇殿を許されていた。浪人でありながら四位以上の者にしか許されない白小袖を着用していたため、京都所司代・稲葉正則の取調べを受けたことがあるが、家伝の永補任御免許について言及、実物も持参し堂々と返答して事なきを得たという出来事がある。稲葉はこの件について、丸亀藩主・京極高豊に書状を送って照会し、「六角兵部という者なら知っている」との回答を得ている。葉隠聞略においては、鍋島直茂が氏郷を六角氏の正統として認識していた発言が認められ、当時の人々に氏郷が六角氏正嫡として認められていた事実がうかがえる。
 『京極氏家臣某覚書抜萃』によると、京極高豊とは天和年間以降親交が深く、京極家から合力銀を受けていた。これは実子がなかったことから六角家に代々伝わる家宝七品を高豊に贈り、高豊の子を迎えて後継者とした(これ以前には同じ宇多源氏の堂上家である庭田家から庭田雅純の子・重条を迎えて後継者としており、重条が実家に戻った後には筑前黒田家や津和野亀井家に家宝を譲渡し後継者を得ようとしたが、成功していない)縁によるものである。その3年後に丸亀を訪れた折には京極家一門として三千石を給し、丸亀に迎えようとの話が出たという記録もある。
 元禄6年(1693年)、死去。享年73。沙沙貴神社所蔵佐々木系図に官位が記載されている。
 なお、氏郷の子孫(おそらく孫)にあたる六角敦周(1727年~?)は1768年(明和5年)に滝口武者に任じられ、佐渡守にまで昇進、滝口六角家として幕末まで存続した。氏郷の玄孫である六角敦義は『御遷幸供奉色目抄』を著し、学者としても名を成した。 また、娘婿である医師・有馬重雅の子孫に医師・六角重任がおり、天明年間『古方便覧』『疾医新話』などの著作を残している。 

六角定頼 六角義賢

 明応4年(1494年)、六角高頼の次男として生まれる。永正元年(1504年)、京都にある相国寺慈照院に僧侶として入る。そのため、吉侍者と称された。しかし兄の六角氏綱が永正3年(1506年)に細川氏の戦いで重傷を負い、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。
 その後、第10代将軍・足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げている。のちに義稙が追放されると、第12代将軍・足利義晴の擁立に細川高国と共に貢献し、その功績により天文15年(1546年)に義晴から管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。
 また、その一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っている(江口の戦い)。さらに北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上、従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。
 天文21年(1552年)1月2日に死去。享年58。後を嫡男の六角義賢が継いだ。
 先進的な手法で、内政にも手腕を発揮した。大永3年(1523年)には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じた。これは後世の一国一城令の基になったと言われている。
 織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したのも定頼である。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したのである。
 子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略も巧みで、さらに足利将軍家の後ろ盾になることで、当時では中央政治をも左右するほどの勢力を持っていた。  

 六角氏15代当主。観音寺城主。剃髪後は承禎と号した。
 大永元年(1521年)、六角定頼の嫡男として誕生。天文2年(1533年)4月21日、観音寺城で元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、義賢と名乗った。
 父・定頼の晩年から共同統治を行い、父と共に姉婿に当たる細川晴元を援助して、三好長慶と戦った(江口の戦い)。天文21年(1552年)、父の死去により家督を継いで六角家の当主となる。六角家は甲賀郡を含む近江国の守護であり、更に他国の伊賀国の4郡の内の3郡の間接統治も行っていた。弘治3年(1557年)、嫡男・義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎と号したが、実権は永禄11年(1568年)のいわゆる永禄崩れまで握り続けた。
 父の死後も13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦っている。北近江の浅井久政を撃退し浅井氏を従属下に置き、従属関係を強調するため、久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせた(後に長政と改名)。
 永禄3年(1560年)、浅井長政が六角氏に対して反抗を開始、義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した(野良田の戦い)。この敗戦により、それまで敵視していた斎藤義龍とも同盟関係を結び、対浅井氏の戦を繰り広げていくが、戦況は芳しくはなかった。
 永禄4年(1561年)、細川晴元が三好長慶に幽閉されると承禎は激怒し畠山高政と共に京都に進軍し長慶の嫡男・三好義興と家老の松永久秀と対戦。一時的ではあるが三好氏を京都より追い出すことに成功している(将軍地蔵山の戦い)。
 永禄5年(1562年)3月5日、畠山高政は河内国において長慶の弟である三好実休を敗死に追い込んだ(久米田の戦い)。そして翌6日に承禎は洛中に進軍し、8日に徳政令を敷き山城国を掌握した。しかし、承禎はその後は動かず、4月25日には高政に督促されたが依然として停滞し、続く5月19日から20日にかけて教興寺の戦いで畠山軍が壊滅すると山城から撤退、三好長慶と和睦した。
 永禄6年(1563年)10月、義治が最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった(観音寺騒動)。賢豊が承禎の信任が厚かったことから、義治が賢豊を殺害したのは承禎の影響力を排除する目的であったとする説もある。これにより、家臣の多くが六角氏に対して不信感を爆発させ、承禎も義治と共に観音寺城から追われるまでに至ったが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子の仲介で承禎父子は観音寺城に戻ることができた。
 永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される(永禄の変)と、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)は近江の和田惟政の下に逃れる。当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたり、織田信長・浅井長政の同盟(お市の方と長政の婚姻)の斡旋をしているものの、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の下に逃れた。これを受けて、永禄9年(1566年)には浅井長政が六角領に対して侵攻を開始、蒲生野合戦が行われるが、六角家中は観音寺騒動を契機に浅井家側に寝返る家臣が生じるなど求心力を失っており、浅井を食い止めるだけで精一杯となった。
 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、承禎は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶、織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。
 元亀元年(1570年)6月には体制を建て直し、承禎は朝倉義景,浅井長政や三人衆らと同盟し、南近江の地で織田軍を圧迫した。この戦いでは同盟軍が優勢となり、危機に陥った信長は同盟軍の切り崩しを図り、11月に足利義昭を通じて承禎父子と和睦している。なお、観音寺城を奪還できないまま信長と和睦した承禎父子は実質的には降伏に等しく、この和睦をもって大名としての六角氏は滅亡したとする評価もある。
 元亀3年(1572年)1月、甲賀郡から承禎は再度出陣し、織田勢に対しゲリラ戦を展開した。元亀4年(1573年)4月、承禎は湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入った。信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛,柴田勝家,蒲生賢秀,丹羽長秀により鯰江城を囲んだが、同月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして寺を焼き払い、攻略を諦めて岐阜に帰還している。
 しかし、天正元年(1573年)8月、承禎と連携していた朝倉義景,浅井長政が刀根坂の戦い,小谷城の戦いでそれぞれ敗れ、信長に討たれてしまう。同年9月4日、信長はそのまま佐和山城に入り、六角義治の籠る鯰江城攻めを柴田勝家に命じ、今度はこれを落とし9月6日に岐阜へ凱旋した。更に、同月、承禎の籠る甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲された。翌天正2年(1574年)4月13日、菩提寺城と石部城もついに落城し、承禎は夜間雨に紛れ甲賀郡南部の信楽に逃れた。
 その後、畿内はほぼ信長に制圧されたが、承禎は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、あるいは隠棲していたともいわれるがはっきりしていない。
 天正9年(1581年)、承禎はキリシタンの洗礼を受けている。その後は豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に死去した。享年78。 

六角義治 六角義定

天文14年(1545年)、六角義賢の嫡男として生まれる。母は畠山義総の娘であるが、義賢ははじめ正室に義総の娘を迎えていたが早世したため、継室にはその妹を迎えていた。義治はその妹を生母とする男児である。ちなみに母親は天文16年(1547年)に早世している。
永禄2年(1559年)、父の義賢が隠居したため、家督を継承して当主となった。だが実権は父が握っていたらしく、永禄4年(1561年)に河内の畠山高政と共闘して三好氏を攻めた際は、父のもとで弟と共に京へ出兵している。
永禄6年(1563年)、六角家中でも特に信望のあった重臣後藤賢豊親子を観音寺城内で誅殺してしまう(観音寺騒動)。これを契機として六角氏の家中は動揺し、近隣の浅井長政に主替えする者まで現れ始めた。この騒動で義治は一時、父と共に反発した家臣団に観音寺城を追われたが、重臣の蒲生定秀、蒲生賢秀らの尽力により観音寺城に戻った。
永禄8年(1565年)、京で三好三人衆と松永久秀が将軍・足利義輝を殺害する。義治は義輝の弟・足利義昭が亡命してくるとそれを匿ったが、三好三人衆が管領職などを条件にして義治を誘ってくると、義治はこれに応じて義昭を追放した。
永禄10年(1567年)4月28日、主君の権限を抑える分国法である六角氏式目に署名することを余儀なくされた。家督も強制的に弟の六角義定に譲らされたとされるのが従来の通説であるがこれには異説もある。
永禄11年(1568年)、織田信長が侵攻して来ると、仇敵であった三好氏の勢力と対信長で共闘することになる。三好三人衆の石成友通らの援助を受けて徹底抗戦を図り、一旦は追い返すものの、信長は翌年六角方の抗戦体制が緩んだ機に再侵攻して来た。激戦の末に六角親子の立て篭もる箕作城は落城(観音寺城の戦い)。六角勢は甲賀郡に拠点を移す。その後も浅井氏・朝倉氏と連携するなどして信長方を苦しめ続ける(野田城・福島城の戦い)。信長の要請による朝廷の介入により、信長と六角・浅井・朝倉は和議を結ぶが、体勢を立て直した信長は和議を一方的に破棄し、朝倉、次いで浅井を滅ぼすに至り、義治は信長と再度和睦する。その後も甲賀郡を拠点に、足利将軍家・越後上杉・甲斐武田らを動員した信長包囲網の構築を御膳立てするなどの、義賢・義治父子の反信長の戦いは続いたが、次第に史料からは姿を消していく。
信長の死後、豊臣氏の時代が訪れると、関白・豊臣秀次主催の犬追物に弓馬指南役として出席しているのが確認される。豊臣秀吉の御伽衆として仕えたとされ、秀吉の死後は豊臣秀頼の弓矢の師範を務めた。出家していたらしい。慶長17年(1612年)10月22日に死去。享年68。

 別名に高定,賢永,高盛。通称は次郎左衛門尉。官途は中務大輔。生前は高定であり、義定とは名乗っていないとの説もある(以下は広く知れた「義定」を用いる)。
 兄の六角義治が重臣の後藤賢豊父子を手討ちにした、いわゆる「観音寺騒動」を起こし、家臣団の統制が取れなくなると、義賢の命令で兄に代わり義定が六角氏の家督を継いだ、とされている。
 やがて織田信長が南近江六角領に侵攻。箕作城に父や兄と籠城するなど抵抗するも、六角氏の要害観音寺城は落城。父や兄と共に甲賀の山中に逃亡し、元亀騒乱などの対織田信長への抗戦運動に活躍する。また、六角義賢が甲斐武田氏の一族、穴山信君に書状を送る際、使者として派遣された。
 天正10年(1582年)の甲斐武田氏滅亡の際、甲斐国内に寄宿していた各地の「信長に敗れた勢力の当主」の中に、若狭武田五郎(武田信景か)や犬山織田信清,美濃の土岐頼芸(妻は義定の父・義賢の妹)らに混じって佐々木次郎が確認される(この際、名刹恵林寺は「佐々木次郎を匿った罪」で焼き討ちされている)。この織田の甲斐侵攻戦の際、佐々木次郎は捕らえられて殺害された、との説もあるが(同族佐々木氏の別人説あり)、慶長5年(1600年)に佐々木次郎(義定)は史料上に再登場する。その間の動向は不明。
 その数年後、豊臣秀頼に面会した記録が残る。その際、秀頼家臣となっていた一族(六角義郷)と面会した記録も残る。 元和6年(1620年)頃、死去か。
 六角高義と六角高和の男子があり、高義は兄・義治の婿養子となり、高和は江戸幕府旗本となった。このほか養子として佐々木定治(佐々木兵庫入道)がいる。高和の系統はのち無嗣断絶となっているが、定治の系統は加賀藩士佐々木家(佐々木兵庫入道家)として後代まで家が続いている。 

佐々木定治 佐々木定賢

 六角高賢の子として誕生。父・高賢は義定の嫡男だった。
 永禄9年(1566年)に浅井長政が六角領へ侵攻(蒲生野の戦い)し、義賢の嫡男・義治は敗北。永禄10年(1567年)、義治は戦いの責任を負い、次男の義定が家督を継いでいた。
 しかし、高賢は病弱を理由に弟の高和が家督を継いだ。高和は江戸幕府旗本となるも、のち無嗣断絶となっている。
 定治は六角氏が長い流浪の末に仕えた豊臣秀頼の家臣となり、慶長19年(1614年)大坂の陣に参戦。戦後、加賀藩主・前田利常に招かれ、1000石で仕える。子孫は佐々木左近大夫家として後代まで続いた。騎兵長の座だった。

 

 加賀藩士。佐々木左近大夫家3代当主で1000石を有した。
 承応3年(1654年)、佐々木定之の子として金沢で誕生。寛文6年(1666年)、父の死去に伴い家督を継承する。元禄3年(1690年)に歩兵長、同16年(1703年)に騎兵長。
 宝永5年(1708年)には『佐々木氏系譜序例』を著し、六角義治の嫡流である自分こそが佐々木氏の嫡流であると主張した。『寛永諸家系図伝』編纂時に、同族の旗本・佐々木高重が自らを佐々木氏(六角氏)嫡流であるとした系図を提出したことを不当とし、抗議したが容れられず誤りが続いているとしている。また「佐々木氏偽宗弁」を付し、六角氏嫡流を称していた沢田源内を、全くの偽系譜で世間を欺いていると非難した。これらは『系図綜覧』に収録されている。
 高重は、家譜で義治の跡を義治の弟・義定が継いだとし、更に義定の跡は次男の高和が継承したとしていた。高和の子が高重である。『寛永系図』にはこの系譜が採取された。ただし、この家は高重の子・求馬定賢が延宝9年(1681年)に早世し無嗣断絶となった。なお『寛永系図』の続編(改修版)・『寛政重修諸家譜』では佐々木庶流となっている。
 一方、定賢の先祖は義治の養子・定治である。定治は義定の長男・高賢と、義治の娘との間に生まれた子で、外祖父・義治の養子となったと主張した。現在は、定賢の主張を事実とする説が有力視されるようになっている。
 孫の定国の代に加増されて2100石となった。