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六角高頼 | 六角氏綱 |
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南近江の戦国大名。六角政頼?(又は六角久頼)の子。足利義高(のちの義澄)に一字を賜う。
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明応元年(1492年)、六角高頼の嫡男として誕生。幼名は亀王丸。永正2年(1505年)、室町幕府11代将軍・足利義澄の参内に随従し御所唐門の警備を担当する。北近江の京極氏の内紛に際しては京極材宗を支援し、その勢力を削いだ。 |
六角義実 | 六角義秀 |
六角氏嫡流の六角氏綱の子。母は足利義澄の妹。別名に隆頼,義久。出家して宗能と号す。 |
六角氏嫡流の六角氏綱の子(又は氏綱の子である六角義実の子)。正室は織田信広の娘(信長養女)。官途は参議,修理大夫。幼名は日吉丸,亀寿丸と伝わる。 |
六角義郷 | 六角氏郷 |
六角義秀の長男(六角氏綱の長男、義秀の弟とする説もある)。母は織田信広の娘千代君。別名に義康。幼名は龍武丸という。官位は近江守,左兵衛佐,侍従。のちに出家し入道台岩。 |
六角氏嫡流の六角義郷の嫡男。幼名は龍武丸。官位は従四位下中務大輔,兵部大輔,左衛門督。経歴の信憑性は歴史学において長らく疑問視されてきたが、一部にその存在を推定させる文書や系図類が存在し、それにより実像の解明がなされつつある。 |
六角定頼 | 六角義賢 |
明応4年(1494年)、六角高頼の次男として生まれる。永正元年(1504年)、京都にある相国寺慈照院に僧侶として入る。そのため、吉侍者と称された。しかし兄の六角氏綱が永正3年(1506年)に細川氏の戦いで重傷を負い、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。 |
六角氏15代当主。観音寺城主。剃髪後は承禎と号した。 |
六角義治 | 六角義定 |
天文14年(1545年)、六角義賢の嫡男として生まれる。母は畠山義総の娘であるが、義賢ははじめ正室に義総の娘を迎えていたが早世したため、継室にはその妹を迎えていた。義治はその妹を生母とする男児である。ちなみに母親は天文16年(1547年)に早世している。 |
別名に高定,賢永,高盛。通称は次郎左衛門尉。官途は中務大輔。生前は高定であり、義定とは名乗っていないとの説もある(以下は広く知れた「義定」を用いる)。 |
佐々木定治 | 佐々木定賢 |
六角高賢の子として誕生。父・高賢は義定の嫡男だった。
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加賀藩士。佐々木左近大夫家3代当主で1000石を有した。 |