宇多源氏

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松下高長 松下之綱

 松下氏の祖にあたる西條高長はもともとは比叡山の衆徒であったが、下山して遠江国山名郡平河郷で還俗し、鎌倉時代末期に三河国碧海郡松下郷に移住し、これにより苗字を松下と名乗ってはじまったと伝わる。

 豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃に一時期、主君として仕えていた人物である。之綱は遠江頭陀寺城主として今川義元に仕えた。

頭陀寺城は引馬城の支城と言う位置づけであったが、桶狭間の戦いの後に引馬城主が今川氏を見限り、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きた際、永禄7年(1564年)に今川方の軍に頭陀寺城が攻め落とされ炎上した。

 やがて今川氏が滅亡すると、徳川家康の家臣として仕えた。小牧長久手の合戦の際には徳川方についている。天正11年(1583年)、羽柴秀吉の召し出しを受けて家臣として仕え、丹波,河内,伊勢などの内に3000石の所領を与えられた。天正15年(1587年)、従五位下・石見守に叙位・任官する。そして秀吉から6000石を与えられた。

 天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が関東に移封されると、10月3日に遠江久野1万6000石の所領を与えられた。この時の居城である久野城は城の規模は小さいが、瓦の格式が高く立派な造りであった。

 慶長3年(1598年)2月30日に死去。享年61。後を次男の松下重綱が継いだ。長男が継がなかった理由はよくわかっていない。

松下重綱 松下長綱

 秀吉に仕え、のち豊臣秀次に属した。天正16年(1588年)、右兵衛尉に任官。慶長3年(1598年)、家督を相続して遠江久野1万6000石の領主となる。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参戦し、石田三成軍と戦うなど活躍したものの、慶長8年(1603年)、無断で城の石垣を築いた罪科により常陸国小張に移封させられた。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも大いに活躍した。その功績により、元和2年(1616年)に2万800石に加増された。元和9年(1623年)、下野国烏山藩へ移封。
 寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、嘉明の娘婿であった重綱は陸奥国二本松藩5万石に加増移封され、嘉明の与力大名となった。同年10月2日、49歳で死去。墓地は福島県二本松市の州伝寺。

 寛永4年(1627年)に父が死去したため、家督を継いで二本松藩5万石の第2代藩主となるが、若年であることを理由に寛永5年(1628年)1月に陸奥三春藩3万石に移封された。寛永13年(1636年)、従五位下、石見守に叙位・任官する。

 しかし寛永21年(1644年)4月10日、乱心したとして改易され、その身柄は縁戚に当たる土佐藩主・山内忠義に預けられた。一説には、前年に二本松藩の加藤明利ら加藤家がことごとく改易されているため、その加藤家の縁戚に当たることから連座的な改易を受けたとされている。
 その後、長綱は土佐の久万村で余生を過ごした。万治元年(1658年)9月10日に死去。享年49。
 松下家の家督は次男の松下長光が継ぎ、寄合旗本として存続した。