G757:松下高長 | 源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 ― 松下高長 ― 松下連長 | G757:松下連長 | ● |
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松下安綱 | |
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遠江国浜松にて活動した武将・修験者。兄の松下清景と共に徳川家康に仕えた。『徳川実紀』では「二諦坊」の主と述べられているが、これは、あくまでも後世の伝聞で、実際は家康に近侍した奥勤めであり、身辺警護を任された家康直近の武将である。徳川家康が遠州に進攻する前に、飯尾連竜なきあとの曳馬城の開城工作に活躍するなど諜報活動に従事したという伝承もあるが、松下家系譜によれば三河岡崎城にて、徳川家康に初めて御目見、遠州浜松城部屋住みより始めて、小姓に取り立てられ、勘定頭と奥勤を兼ねた。若い頃は修験者として三河,遠江,駿河の白山先達職を任じられた者として記録されている。三河,遠江に徳川氏の支配が確立するまでは、秋葉山の御師に変装して三河,遠江,駿河など各地を巡歴し、情報を徳川家康や井伊氏に報告した。井伊直政(虎松)の徳川家康への初お目見にも活躍したとみられる。 天正18年(1590年)、家康が関東に入国した後、武蔵国都筑郡,多摩郡,常陸国鹿島郡の三郡で740石を与えられた。寛永元年(1624年)、67歳で死去とされるが没年・没歳には疑問が残る(家康の命で曳馬城の調略を行った時がわずか10歳となる)。墓所は高野山聖無動院。直系の子孫は、治安維持の役職を踏襲し、火付け盗賊改め方や駿府町奉行を務めた者もいる。駿府城の東門は常慶門とも呼ばれる。子孫は現在に至る。 |
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