宇多源氏

G751:六角泰綱  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 ― 佐々時綱 G773:佐々時綱


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佐々時綱 佐々成宗

 有力な説では、佐々氏の祖は鎌倉時代後期の六角泰綱の末子・佐々権僧都頼起(良輝)にはじまるとされる。頼起の子・時綱が伯父の六角頼綱の養子になって佐々氏を興したという。他に、応仁の乱で主家に背いて戦死した六角政堯の子・成義に始まるとする系図も伝わる。また、佐々木盛綱の子・加地信実の8男・氏綱が上総国佐々庄に住み、佐々氏を称したとするものもあるが、上総国には佐々庄なるものは存在せず、こちらは信憑性が低い。
 一方では、藤原氏説もある。かつて尾張国高田寺にあった大永5年(1525年)銘の梵鐘に、檀那として「比良佐々下野守藤原貞則」と刻銘されており、当時は藤原氏を名乗っていたことが知られる。貞則は織田信貞(信長の祖父)の偏諱を受けていると考えられ、成政らの父に当たる可能性がある。また佐々氏の子孫には藤原氏を名乗る家もある。
 いずれにせよ、一代で成り上がった他の多くの戦国武将と同じく、その起源ははっきりしない。 

 尾張に生まれる。井関城を根拠としていたが、天文年間初めに比良城へ移った。その頃には、織田氏ではなく斯波氏に仕える重臣となっていた。成宗は、堀場宗氏の娘を娶った。成宗の子供は、長男・政次と次男・孫介,3男・成政 、4男・長穐。しかし、孫介は弘治2年(1556年)に稲生の戦いで戦死、政次も永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで戦死した。そして成宗は天文23年12月8日(1555年1月1日)に死去した。享年76。 
佐々政次 佐々孫介

 尾張国井関城主。天文8年(1539年)8月、織田信秀に仕える。同11年(1542年)、三河国小豆坂の戦いで弟・孫介と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられる。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで討死。
 長男清蔵は織田信忠に仕え、成政の娘を娶るが、本能寺の変で討死した。 

 大永6年(1527年)、佐々成宗(盛政)の次男として尾張国井関城に生まれる。天文11年(1542年)8月、齢17歳にして三河国小豆坂の戦いで功名。兄・隼人正と共に小豆坂七本槍の一人に数えられる。弘治元年11月26日(1556年1月7日)に坂井孫八郎が織田信光を殺す事件があり、孫介は信長の命により5人の討っ手と共に坂井を成敗した。翌2年8月、稲生の戦いに武者大将として出陣し奮戦するも討死を遂げた。
佐々行政 佐々成政

 織田・豊臣・徳川三氏に仕えた老練な鷹匠。通称は淡路守。尾張の戦国大名・織田信長に鷹匠として仕え、その後、羽柴秀吉の鷹匠頭となった。
 天正13年(1585年)、秀吉の紀州征伐に従軍し、3月22日、細川忠興,大谷吉隆,稲葉典通,筒井定次,伊藤長弘,行政は、積善寺城に派遣され、同城は忠興の火砲で攻撃を受けて降伏した。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では、7月、小田原城落城後、自害した北条氏政・氏照兄弟の検使を石川貞清などとともに務めた。
 天正20年(1592年)、文禄・慶長の役では鷹匠衆850人を率いて肥前名護屋城に滞陣している。文禄2年(1594年)に諸大夫成を果たし、官位を受けた。
 『太閤様御代配分帳』によれば、慶長2年(1597年)頃には6,000石の知行を領していた。この頃、佐々行政は出羽秋田の安東氏に対する豊臣政権の肝煎(取次)を務めていた。秋田実季と浅利頼平との間で紛争が発生した際には実季の側に立ち、浅利方の浅野長政(長吉)との交渉を行っている。なお、「守矢家文書」では十人衆の一人となっている。ただし、従来、豊臣政権の十人衆といわれるものは五奉行と五大老をあわせたもので、裁判の受理・聴取を担当する吏僚であった。
 行政は、信長時代から徳川家康と懇意にしていた。慶長4年(1600年)12月初旬、『三河後風土記』によると、家康が三河時代を思い出して放鷹したいというので、増田長盛は、豊臣家の鷹匠である行政と増田若狭守に相談して作法を教わり、鷹師らをよび集め、鷹狩の手はずを整えさせた。8日、摂津茨木で鷹狩が行われ、鷹匠両人は褒美として服と黄金を賜り、鷹師には巻物と銀子、犬引・餌指といった卑賤の者共にも白銀・鳥目銭が与えられた。
 慶長5年(1600年)6月、行政は家康の会津征伐に参加した。『重修譜』によると、行政は石川貞政や堀田一継と浜松城まで追いかけていって合流したという。8月12日、家康は加藤清正に対して肥後・筑後の加増を約束する書状を送ったが、その中で、行政は津田秀政とともに、より詳細な内容を清正に伝える役割を与えらたとされ、『大村記』では、行政と秀政は「肥後国両目付」とされている。9月15日の関ヶ原本戦にも、行政は織田有楽斎らとともに中山道沿いの先鋒与力として参戦する。戦闘で首級を上げ、一番首の功と(浅野幸長隊の)石川貞政と争うが、土岐重元の証言により、家康の裁定で行政が二番首となった。
 慶長11年(1606年)春、榊原康勝の祝言に関わったことで、康勝の父の榊原康政から感謝の旨を記した書状が送られている。宛名は「佐々淡路様 人々御中」となっていた。
 慶長18年(1613年)10月、駿府に出仕していたが、兄弟で改易された。富田信高が殺人犯を隠匿庇護した罪に連累したものとされる。浪人後、豊臣家に仕官したらしく、慶長19年(1614年)の大坂の冬陣で、11月29日、徳川方の九鬼守隆が井楼櫓を攻めて、豊臣方の船奉行・佐々淡路守某の船印・鳥毛の棒を奪い、捕虜と首級と大船二隻、盲船一隻を鹵獲したという。 

 佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。 兄に隼人正(政次)、孫介(成経)がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。織田信長に仕え、馬廻りから戦功を重ねて頭角を表し、永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口では、梁田広正,中条将艦らと共に、僅かな兵力である馬廻り衆を率いて、成政も殿の軍に参加し、鉄砲隊を用いて秀吉軍を救援し活躍したとされる。
 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家,野々村正成,福富秀勝,塙直政とともに鉄砲隊を率いた。同年9月、織田信長は越前制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力として成政,前田利家,不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。
 天正8年(1580年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。
 天正10年(1582年)本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。
 明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、賤ヶ岳の戦いには上杉軍への備えのため越中を動けず、本人は合戦に参加できなかった(しかし、叔父の佐々平左衛門に兵600を付けて援軍には出している)勝家の敗死後は、前田氏の寝返りや上杉家の圧迫もあり、成政は娘を人質に出し、剃髪することで降伏。越中一国を安堵され矛を収めた。翌天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって成政は徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を迫ったが、快い返事は得られず、壮挙は空しく失敗した。
 翌・天正13年(1585年)、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。
 天正15年(1587年)の九州平定で功をあげたことを契機に、肥後国一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われるが、これが言葉通りの意味に取れるかは不明。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行うとするがそれに反発する国人が一揆(肥後国人一揆)を結び反抗した。このため、失政の責めを受け、安国寺恵瓊が助命嘆願をしたが、許されることはなく、摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(53説が最も有力だが正確な生年は不詳)。

佐々長穐 佐々長成

 当初、武将としての活躍は少なく、永禄年間より越後の上杉氏との外交折衝に活躍する。天正3年(1575年)越前一向一揆討伐に参戦、そのまま簗田広正の与力として加賀檜屋城代となり一揆平定に苦心するが進展せず、広正は解任され、長穐も帰還した。天正6年(1578年)上杉謙信が急死すると、神保長住の援軍として越中に送られ、上杉軍と戦う。その後、越中は兄の成政が一職支配権を得るが、この頃の長穐の動向は不明。
 本能寺の変後、織田信雄に仕えて尾張青山郷で三百五十貫文を領す。後に豊臣秀吉に仕えて馬廻りとなり、朝鮮出兵時は肥前名護屋城に在番。慶長20年(1615年)大坂の陣で討死を遂げたという。 

 旗本。喜三郎のちに信濃守。尾張国に生まれた。豊臣秀吉に馬廻として仕えた。徳川家康の会津征伐に従軍し、関ヶ原の戦いで有馬豊氏隊に属し後ろ備えを務めた。
 慶長6年(1601年)丹波国において500石を加増され、摂津国の領地と合わせて1519石を領した。慶長9年に家康の上洛に供し信濃守に叙任された。その後の大坂の陣では嫡男の長次とともに永井直勝の軍に属し従軍。役後に寄合に列した。寛永2年に没し小石川の吉祥寺に葬られた。

佐々政元 佐々宗淳

 『武功夜話』によれば、丹羽氏次の子で初名は平太といい、成政の叔父・宗長の養子になったというが疑問が多い。天正8年(1580年)7月、越後上杉氏の家臣・吉江宗信が織田勢によって木舟城を追われると、代わってその城主となる。柴田勝家の敗死後、羽柴秀吉方となった前田利家との関係が悪化すると対前田氏との緒戦に参加する。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉の要請を受けた成政の名代として羽柴軍に参戦しているとする指摘がある。その後、成政が秀吉・利家と決別すると、末森城合戦に参加。 天正13年(1585年)、前田秀継の守る今石動城を攻め、近隣を放火するなどしたが前田安勝らの援軍が到着すると、撃退されている。
 後、成政が肥後へ転封となるとこれに従ったが、肥後国人一揆の責任を問われて成政が自害すると、彼も殉死したという。しかし、その後、加藤清正に仕えたともいう。 

 戦国武将・佐々成政の実姉の曾孫にあたる。父の直尚は、はじめ熊本の加藤氏、寛永に讃岐に移って生駒高俊に仕えた。しかし、生駒騒動が起きると直尚の一家も讃岐を立ち退くこととなり、その途上、瀬戸内の一小島で生まれた。そのため、幼名は島介といった。その後、父は大和の宇陀松山藩の織田高長に仕え、少年期は宇陀で過ごした。
 承応3年(1654年)15歳のときに京の臨済宗妙心寺の僧となり、「祖淳」と号した。妙心寺において『本朝高僧伝』等を著した仏教史家の卍元師蛮に師事した。後に隠元隆琦にも学び、多武峰や高野山,比叡山に赴くなどその他の宗派も積極的に修行した。しかし、「父母兄弟が殺されても復讐してはならない」とする梵網経の一節を読んで仏教に疑問を持ち、密かに論語を読み儒学に傾倒するようになった。
 延宝元年(1673年)、34歳のとき還俗。江戸に出て翌延宝2年9月、水戸藩に仕官し進物番兼史館編修となる。光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いた。
 光圀のもとで『大日本史』の編纂に携わった彰考館史臣の中心人物の一人であり、とりわけ史料収集に多く派遣された。これは京や奈良に関わり深い経歴にもよるものでもあるが、各地を歴訪して古典・文書を探索し、その真偽を鑑定する学力を有しているとされたためである。特に延宝8年(1680年)の「高野山文書」、天和元年(1681年)の「東大寺文書」の調査は、古文書研究の上でも後世に大きく貢献することとなった。また那須国造碑の修復と調査、楠公碑の建立の現地監督を行なった。
 元禄元年(1688年)、史館総裁に任ぜられる。元禄9年(1696年)、史館総裁を辞任。その後は西山荘の光圀に近侍し、近くの不老沢に居を構えた。
 元禄11年(1698年)、不老沢の宅にて死去。享年59(満58歳没)。明治40年(1907年)11月15日、明治政府より贈従四位。
 同族の子孫に佐々友房,佐々弘雄,佐々淳行がいる。 

佐々貞則
 かつて尾張国高田寺にあった大永5年(1525年)銘の梵鐘に、檀那として「比良佐々下野守藤原貞則」と刻銘されており、当時は藤原氏を名乗っていたことが知られる。貞則は織田信貞(信長の祖父)の偏諱を受けていると考えられ、成政らの父に当たる可能性がある。また佐々氏の子孫には藤原氏を名乗る家もある。