G751:六角泰綱 | 源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 ― 佐々時綱 | G773:佐々時綱 | ● |
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佐々時綱 | 佐々成宗 |
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有力な説では、佐々氏の祖は鎌倉時代後期の六角泰綱の末子・佐々権僧都頼起(良輝)にはじまるとされる。頼起の子・時綱が伯父の六角頼綱の養子になって佐々氏を興したという。他に、応仁の乱で主家に背いて戦死した六角政堯の子・成義に始まるとする系図も伝わる。また、佐々木盛綱の子・加地信実の8男・氏綱が上総国佐々庄に住み、佐々氏を称したとするものもあるが、上総国には佐々庄なるものは存在せず、こちらは信憑性が低い。 |
尾張に生まれる。井関城を根拠としていたが、天文年間初めに比良城へ移った。その頃には、織田氏ではなく斯波氏に仕える重臣となっていた。成宗は、堀場宗氏の娘を娶った。成宗の子供は、長男・政次と次男・孫介,3男・成政 、4男・長穐。しかし、孫介は弘治2年(1556年)に稲生の戦いで戦死、政次も永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで戦死した。そして成宗は天文23年12月8日(1555年1月1日)に死去した。享年76。 |
佐々政次 | 佐々孫介 |
尾張国井関城主。天文8年(1539年)8月、織田信秀に仕える。同11年(1542年)、三河国小豆坂の戦いで弟・孫介と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられる。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで討死。 |
大永6年(1527年)、佐々成宗(盛政)の次男として尾張国井関城に生まれる。天文11年(1542年)8月、齢17歳にして三河国小豆坂の戦いで功名。兄・隼人正と共に小豆坂七本槍の一人に数えられる。弘治元年11月26日(1556年1月7日)に坂井孫八郎が織田信光を殺す事件があり、孫介は信長の命により5人の討っ手と共に坂井を成敗した。翌2年8月、稲生の戦いに武者大将として出陣し奮戦するも討死を遂げた。 |
佐々行政 | 佐々成政 |
織田・豊臣・徳川三氏に仕えた老練な鷹匠。通称は淡路守。尾張の戦国大名・織田信長に鷹匠として仕え、その後、羽柴秀吉の鷹匠頭となった。 |
佐々氏は尾張国春日井郡比良城に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。 兄に隼人正(政次)、孫介(成経)がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。織田信長に仕え、馬廻りから戦功を重ねて頭角を表し、永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口では、梁田広正,中条将艦らと共に、僅かな兵力である馬廻り衆を率いて、成政も殿の軍に参加し、鉄砲隊を用いて秀吉軍を救援し活躍したとされる。 |
佐々長穐 | 佐々長成 |
当初、武将としての活躍は少なく、永禄年間より越後の上杉氏との外交折衝に活躍する。天正3年(1575年)越前一向一揆討伐に参戦、そのまま簗田広正の与力として加賀檜屋城代となり一揆平定に苦心するが進展せず、広正は解任され、長穐も帰還した。天正6年(1578年)上杉謙信が急死すると、神保長住の援軍として越中に送られ、上杉軍と戦う。その後、越中は兄の成政が一職支配権を得るが、この頃の長穐の動向は不明。 |
旗本。喜三郎のちに信濃守。尾張国に生まれた。豊臣秀吉に馬廻として仕えた。徳川家康の会津征伐に従軍し、関ヶ原の戦いで有馬豊氏隊に属し後ろ備えを務めた。 |
佐々政元 | 佐々宗淳 |
『武功夜話』によれば、丹羽氏次の子で初名は平太といい、成政の叔父・宗長の養子になったというが疑問が多い。天正8年(1580年)7月、越後上杉氏の家臣・吉江宗信が織田勢によって木舟城を追われると、代わってその城主となる。柴田勝家の敗死後、羽柴秀吉方となった前田利家との関係が悪化すると対前田氏との緒戦に参加する。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉の要請を受けた成政の名代として羽柴軍に参戦しているとする指摘がある。その後、成政が秀吉・利家と決別すると、末森城合戦に参加。 天正13年(1585年)、前田秀継の守る今石動城を攻め、近隣を放火するなどしたが前田安勝らの援軍が到着すると、撃退されている。 |
戦国武将・佐々成政の実姉の曾孫にあたる。父の直尚は、はじめ熊本の加藤氏、寛永に讃岐に移って生駒高俊に仕えた。しかし、生駒騒動が起きると直尚の一家も讃岐を立ち退くこととなり、その途上、瀬戸内の一小島で生まれた。そのため、幼名は島介といった。その後、父は大和の宇陀松山藩の織田高長に仕え、少年期は宇陀で過ごした。 |
佐々貞則 | |
かつて尾張国高田寺にあった大永5年(1525年)銘の梵鐘に、檀那として「比良佐々下野守藤原貞則」と刻銘されており、当時は藤原氏を名乗っていたことが知られる。貞則は織田信貞(信長の祖父)の偏諱を受けていると考えられ、成政らの父に当たる可能性がある。また佐々氏の子孫には藤原氏を名乗る家もある。 |