<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K007:大彦命  阿倍阿加古 AB01:阿倍阿加古

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阿倍内 鳥 阿倍 人

 推古天皇16年(608年)、日本に渡来した隋使・裴世清に対して物部依網抱と共に導者(案内役)を務め、裴世清から受け取った隋の国書を大伴咋に伝達した。推古天皇18年(610年)、新羅・任那の使人が来朝した際には、大伴咋,蘇我豊浦蝦夷,坂本糠手と共に四大夫の一人として対応している。
 推古天皇20年(612年)、皇太夫人・蘇我堅塩媛(推古天皇の生母)を檜隈大陵に改葬した際、軽の街中(現在の奈良県橿原市大軽)で誄を上奏、一番目として鳥が天皇の言葉を宣べた。しかし、時の人からは三番目に大臣・蘇我馬子の言葉を宣べた中臣宮地烏摩侶、四番目に氏姓のもとについて宣べた境部摩理勢はよく誄を宣べたが、鳥のみはうまくできなかったと評された。

 用明朝において、遣使として高句麗に渡る。これに因んで子孫は狛(狛朝臣)姓を称した。
 用明天皇2年(587年)、大臣・蘇我馬子が諸皇子や群臣に勧めて、大連・物部守屋を滅ぼそうと謀る。泊瀬部皇子,厩戸皇子,蘇我馬子らがともに軍勢を率いて守屋を討った。この時、阿倍人は大伴噛,平群神手,坂本糠手らと軍兵を率いて志紀郡から渋河郡の守屋の家に到った(丁未の乱)。 

阿倍内(阿倍倉梯)麻呂 阿倍御主人

 かつては、氏が阿倍で、名が内麻呂(倉梯麻呂)と見られていたが、阿倍内鳥の子とみなして、氏は阿倍内(阿倍倉梯)の複姓で、名は麻呂と考えられるようになった。なお、内は内廷との関わりを、倉梯は大和国十市郡の地名を示す。
 推古天皇32年(624年)、大臣・蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求した際、麻呂と阿曇氏(名不明)が遣わされて天皇へ要求に関する上奏を行ったが、推古天皇はこの要求を拒否している。
 推古天皇36年(628年)、推古天皇が崩御すると田村皇子と山背大兄王が有力な皇位継承候補となった。大臣・蘇我蝦夷は当初独自に皇嗣を決定することを欲したが、群臣が承服しないことを恐れて麻呂と議して自邸に群臣を集めて饗応した。大伴鯨,采女摩礼志,高向宇摩,中臣弥気,難波身刺が田村皇子を支持する一方で、許勢大摩呂,佐伯東八,紀塩手は山背大兄王を支持し、蘇我倉麻呂は返答を保留するなど、群臣の意見が折り合わず、この場で皇嗣を決めることができなかった。
 皇極天皇4年/大化元年(645年)、中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我入鹿が暗殺され、その父・蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡した(乙巳の変)。皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位して新政権が発足する。左大臣には麻呂が、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、麻呂は豪族を代表する重鎮として、また娘の小足媛を孝徳天皇の妃とし、有間皇子を儲けていることから新政権の中枢に加えられたと考えられる。麻呂と石川麻呂は天皇から各々金策(金泥で書いた冊書)を与えられた。
 大化4年(648年)2月に麻呂は四天王寺に四衆(比丘,比丘尼,優婆塞,優婆夷)を招いて、仏像4体を迎えて塔内に安置させ、霊鷲山の像を造るなど法要を執り行った。同年4月には前年に制定された新冠位制度(七色十三階冠)に伴って古冠が廃止されたが、麻呂,石川麻呂の左右大臣は引き続き古冠の着用を続けた。
 大化5年(649年)3月17日薨御。孝徳天皇が朱雀門まで来て哀悼し、皇極上皇や皇太子(中大兄皇子)を始め群臣が付き従って哀哭したという。

 天武天皇元年(672年)に発生した壬申の乱では大海人皇子側につき、このときの功績で持統朝に入ってから100戸の封戸を与えられている。
 天武天皇13年(684年)、八色の姓の制定により臣姓から朝臣姓に改姓した。天武朝では納言を務め政治の枢要に与り、冠位は直大参まで昇った。朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀では太政官のことを誄し、翌持統天皇元年(687年)正月に皇后(持統天皇),皇太子(草壁皇子),公卿,百寮人が殯宮で慟哭したときも誄している。持統天皇2年(688年)、天武天皇が大内陵に葬られた際には、大伴御行と共に誄した。
 持統朝では、太政大臣・高市皇子、右大臣・多治比嶋に次ぎ、大伴御行と並んで高官の地位にあった。
 持統天皇4年(690年)正月の持統天皇即位の翌日に、多治比嶋とともに賀騰極(即位祝賀の言葉)を奏する。官人を代表しての祝辞と考えられる。持統天皇5年(691年)、大伴御行とともに80戸の増封を受け、以前からの封戸とあわせて300戸になった。
 持統天皇8年(694年)、大伴御行とともに正広肆に叙せられ、200戸の増封を受け(通算で500戸)、氏上になった。これまで布勢朝臣姓を称していたが、阿倍氏の氏上となったため、以降は阿倍朝臣姓を称するようになった。このときまで御主人は阿倍氏一族の中で最高位であったにもかかわらず、氏上ではなかったことになる。
 持統天皇10年(696年)に太政大臣・高市皇子が没すると、右大臣・多治比嶋が太政官の首座となり、御主人は大伴御行とともにこれに次いだ。文武天皇4年(700年)、巡察使の報告により治績に応じて各国の国司に叙位や増封が行われた際、大伴御行ととも正広参に叙せられる。
 大宝元年(701年)には多治比嶋,大伴御行が相次いで没すが、御主人は3月に従二位・右大臣に任ぜられ太政官の筆頭に立った。同年7月には壬申の乱の功労で与えられた封戸100戸が中第と評価され、その4分の1を子息に伝えることが許されている。
 大宝3年(703年)正月に刑部親王が知太政官事に任ぜられ、太政官における御主人の地位はこれに次いだ。同年閏4月1日薨御。享年69。正三位・石上麻呂が遣わされて弔し、贈物を行ったという。慶雲元年(704年)になって壬申の乱における功封100戸の4分の1が子息の広庭に伝えられている。
 キトラ古墳の被葬者であるとする説が提唱されている。 

阿倍広庭 布勢人主

 文武朝の慶雲元年(704年)、前年に没した父・御主人の功封100戸の内の1/4を継ぐことが許される。和銅2年(709年)以前に正五位下、和銅4年(711年)正五位上、和銅6年(713年)従四位下に叙せられるなど、元明朝にて順調に昇進を果たす。
 霊亀元年(715年)宮内卿、養老2年(718年)従四位上、養老5年(721年)には正四位下・左大弁に叙任されるなど、元正朝でも要職を務めながら引き続き順調に昇進する。養老6年(722年)、参議に任ぜられて公卿に列し知河内和泉事も兼ねた。
 神亀元年(724年)、聖武天皇の即位の前後に従三位に叙せられ、神亀4年(727年)に中納言に任ぜられる。長屋王政権下では極端に議政官の異動が少ない中、広庭は非常に順調に昇進を果たしており、長屋王との関係が良好であったと見られる。神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、議政官が長屋王糾問に参画する中で、広庭と藤原房前の2人のみがこれに加わらず、変後の論功行賞にも与からなかった。
 天平4年(732年)2月22日薨去。享年74。最終官位は中納言従三位兼催造宮長官知河内和泉等国事。 

 孝謙朝の天平勝宝2年(750年)に遣唐判官に任ぜられ、天平勝宝4年(752年)に大使・藤原清河らと共に唐に渡る。天平勝宝5年(753年)11月に遣唐使の第四船に乗船して唐を離れ、道中で船が火災に遭うトラブルに見舞われつつ、翌天平勝宝6年(754年)4月に薩摩国石籬浦に漂着し、5月には渡唐の功労により従五位下に叙爵し、駿河守に任ぜられた。天平勝宝7年(755年)、駿河国防人部領使として防人歌10首を進上している。
 淳仁朝に入り、天平宝字3年(759年)右少弁に遷ると、天平宝字7年(763年)、従五位上・右京亮に次いで文部大輔に叙任されるなど京官を務める。淳仁朝末の天平宝字8年(764年)4月に上総守として再び地方官に転じたせいか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は不明。
 称徳朝の神護景雲元年(767年)式部大輔として京官に復すが、神護景雲3年(769年)出雲守として三たび地方官に転じている。

阿倍毛人 阿倍嶋麻呂

 天平18年(746年)、従五位下に叙爵し、翌天平19年(747年)玄蕃頭に任ぜられる。天平勝宝6年(754年)、山陽道巡察使。
 淳仁朝では、要職を歴任しながら順調に昇進した。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、藤原仲麻呂側に加勢しなかったらしく、翌天平神護元年(765年)には正五位上次いで従四位下と続けて昇叙された。のち称徳朝では、五畿内巡察使,大蔵卿,造東大寺次官を歴任し、神護景雲4年(770年)8月の称徳天皇崩御に際しては山陵司を務めている。
 同年10月の光仁天皇の即位に伴い従四位上に叙せられ、翌宝亀2年11月(772年1月)、参議に任ぜられ公卿に列する。宝亀3年(772年)11月17日卒去。

 聖武朝の天平12年(740年)、従五位下に叙爵。天平19年(747年)従五位上、天平感宝元年(749年)に侍従に叙任される。この間の天平20年(748年)元正上皇の崩御の際には養役夫司を務めている。
 孝謙朝では右中弁兼侍従を務めたほか、天平勝宝4年(752年)には伊予守に任ぜられ、同年大仏開眼師迎引となる。
 天平勝宝9歳(757年)、藤原仲麻呂が紫微内相に就任するのと前後して正五位下に叙せられると、天平宝字3年(759年)従四位下・左大弁に叙任されるなど藤原仲麻呂政権下で要職を務めながら順調に昇進し、天平宝字4年(760年)に参議に任ぜられ公卿に列す。天平宝字5年(761年)には正月に従四位上、同年3月には正四位下に叙されるも、3月10日卒去。

阿倍古美奈 久努麻呂

 奈良時代の女官。内大臣・藤原良継の室。桓武天皇皇后・藤原乙牟漏の生母となる。
 宝亀6年(775年)8月、正五位上から従四位下となる。その後、順調に昇進し、宝亀10年(779年)11月、正四位下、天応元年(781年)11月、正四位上、続けて従三位を授けられている。いつ尚侍と尚蔵に任官されたのかは不明であるが、天応元年3月に尚侍兼尚蔵・大野仲仟が、翌2年(782年)4月に尚侍・藤原百能が没しているので、その後任として任じられたと思われる。延暦3年(784年)薨去した際の官位は、尚侍兼尚蔵・従三位。朝廷は左大弁兼皇后宮大夫の佐伯今毛人と散位の当麻永嗣,松井浄山らを遣わして、喪事を監護させている。その後、従一位を追贈されたとあり、大同元年(806年)6月には、平城天皇の即位に際し、外祖母の故をもって、夫の藤原良継とともに正一位を贈られている。 

 天武天皇4年(675年)4月8日に麻呂は当摩広麻呂とともに朝廷に参上することを禁じる勅令を受ける。4月14日には麻呂は勅命を帯びた使者に従わなかった罪で官位を剥奪された(このとき冠位は小錦下)。
 その後、罪が赦されたらしく、朱鳥元年(686年)、天武天皇の葬儀に際して刑官のことを誅している(この時の冠位は直広肆)。 

阿倍沙弥麻呂 阿倍東人

 系譜は明らかでないが、大錦下・阿倍名足の子とする系図がある。官位は正四位下・参議。
 天平9年(737年)従五位下に叙爵し、翌天平10年(738年)少納言に任ぜられる。その後はほぼ3年おきに昇叙されるなど聖武朝で順調に昇進し、聖武天皇退位前の天平21年(749年)に従四位上まで昇進する。この間、左中弁を務めた。
 天平勝宝7歳(755年)に防人を監督する勅使として大宰府に下向するが、その際に詠んだ和歌作品1首が『万葉集』に採録されている。孝謙朝では一時昇進が止まるが、天平宝字元年(757年)正四位下・参議に叙任され、阿倍氏としては中納言・阿倍広庭以来25年振りに公卿に列すが、翌天平宝字2年(758年)4月20日卒去。

 天平宝字8年(764年)、藤原仲麻呂の乱後に従五位下に叙爵。天平神護3年(767年)には伊勢守を務めていたが、同国度会郡の等由気の宮(現在の豊受大神宮)の上に五色の瑞雲が立ち上って宮の上を覆ったとして、雲の形を書写して進上した。この頃、平城京でも同様に瑞雲が見られ、これらを契機に神護景雲への改元が行われ、東人は従五位上に昇叙された。
 神護景雲3年(770年)、称徳天皇の崩御後まもなく中務大輔に任ぜられて京官に復帰し、次いで宮内大輔に転じる。光仁朝では大蔵大輔・豊後守などを歴任。のち、宝亀10年(779年)正五位下、宝亀11年(780年)正五位上、天応元年(781年)には桓武天皇の即位に伴い従四位下と、光仁朝末から桓武朝初頭にかけて順調に昇進した。
 桓武朝では刑部大輔を経て、延暦4年(785年)従四位上・刑部卿に至る。延暦18年(799年)1月28日卒去。

安倍寛麻呂 安倍安仁

 天平宝字元年(757年)に生まれるが、桓武朝末までの前半生の事績は不明で、40代後半の延暦22年(803年)になって中務少丞に任ぜられ、初めて歴史上に登場する。
 大同元年(806年)、平城天皇の即位後に伯耆掾(または介)として地方官に転じ、大同3年(808年)、52歳にしてようやく従五位下に叙爵される。
 嵯峨朝前半は侍従,民部少輔,斎宮頭などを歴任する。弘仁7年(816年)従五位上に叙せられると、弘仁8年(817年)正五位下・治部卿、弘仁9年(818年)従四位下と嵯峨朝の後半に急速に昇進し、弘仁10年(819年)には参議兼大宰大弐に任ぜられ、叙爵後10年余りで公卿に列した。しかし、参議任官後僅か1年半後の翌弘仁11年(820年)11月11日卒去。享年64。

 若くして校書殿に出仕したのち、嵯峨朝では山城大掾,中務少丞,民部少丞を歴任する。
 天長年間の初頭に近江権大掾に任ぜられるが、同国の介であった藤原弟雄に信頼され政事を委ねられた。安仁が地方官として政事を行うにあたって万事滞りなくやりきるとして、その名声は朝廷にまで届き、天長3年(826年)蔵人に任ぜられ、天長5年(828年)には従五位下・信濃介に昇進した。信濃介を3年務める間、同国内は粛然とした様子であったといい、のちに嵯峨上皇が諸国司の優劣を評議した際には、安仁の信濃介に及ぶ者はないと評したという。天長8年(831年)、地方官としての功績により従五位上に叙せられる。
 天長10年(833年)3月の仁明天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられると、同年11月に正五位下、承和3年(836年)従四位下と急速に昇進し、承和5年(838年)参議兼刑部卿に任ぜられ公卿に列した。
 この間の承和2年(835年)には勅により嵯峨上皇の身近に仕えるが、上皇に非常に信任されて嵯峨院別当を務め、諸事の決定を委ねられた。のち、上皇に山院の諸事を取り仕切るより国の重要な政務を扱う官職に就くべき、と言われ、承和7年(840年)に左大弁を兼任する一方、院別当を辞職する。しかしその後、院の諸事がうまくいかなくなったことから、結局、安仁が再度院別当に還任し、安仁は夜明けには弁官の業務に就き、退朝後は必ず嵯峨院に伺うようになった。朝廷から院まで原野数里を頻繁に往来する様子に朝廷が憐れみ、特に選んで院に出仕するのに都合の良い官職に転じたという。
 承和9年(842年)正月に大蔵卿に転じ、同年に発生した承和の変後の8月に道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられると、その春宮大夫に任ぜられた。承和11年(844年)従四位上と8年ぶりに昇叙されると、承和13年(846年)正四位下・右大弁、承和15年(848年)従三位・中納言と再び急速に昇進を果たした。
 嘉祥3年(850年)、文徳天皇の即位に伴い正三位に叙せられ、斉衡3年(856年)権大納言、翌天安元年(857年)には大納言兼右近衛大将に至っている。貞観元年(859年)4月23日薨去。享年67。
 身長6尺3寸(約190㎝)の偉丈夫で、重々しく威厳があった。性格は落ち着いていて思慮深く、心立ちも謙虚で人々を家族のように愛したという。また、政務に熟達して、朝廷のしきたりにも良く通じており、奏議に応対するにあたり滞ることがなかった。時間があるときには子孫に教え戒めたという。
 ある時、安仁は子弟に対して、諸国の租税は多くが領主の収入となって、官に納める者は少なく、一方で暮らして行く分には私の食封は身に余っている、と言った。まもなく、安仁は文徳天皇に対して、私は3つの官職を帯びて食封800戸を得ているが尸位素餐の身に多すぎる、伏して願うには大納言としての職封を減らして、中納言に準じた量にして欲しい、旨を上表した。天皇は安仁の譲る心に感心して、特別にこれを許したという。

安倍貞行 安倍清行

 文徳朝の仁寿元年(851年)従五位下に叙爵し、翌仁寿2年(852年)右衛門権佐に任ぜられる。その後、左衛門権佐,右中弁,刑部大輔と京官を歴任し、この間の斉衡3年(856年)従五位上に叙せられている。
 貞観2年(860年)、摂津権守に転じたのち、摂津守,上野介,陸奥守と、清和朝では地方官を歴任する。上野介在任中の貞観8年(866年)、百姓を動員して新たに田447町(約443ha)を開墾した。また、陸奥守在任中の貞観15年(893年)には、国司による気ままな叙位の実施に伴う財源の枯渇を理由に、夷俘(蝦夷のうちで同化の程度の低い者)に対する叙位を年間20人以下に制限すること、および租税納付での不正や官物の欠損が発生した場合はまずその国司の俸禄を没収して補填させ、俸禄では補填できない場合は国守以下全国司の俸禄で補填させること、などを太政官に願い出て許されている。
 右京大夫を経て、元慶3年(879年)従四位上に叙せられ、翌元慶4年(880年)大宰大弐として大宰府に赴任。同年には、それまで大宰府の警固については大宰少弐・藤原房雄が対応していたところ、藤原房雄が肥後守に転任後、警固が行われなくなってしまったが、新たに別の対応者を設定することなく、大宰府の裁量で対応すること、および筑後・豊後両国の国守は必ず大宰府を経由して平安京に入京することとし、大宰府の了承を得ない安易な出国を禁止することを朝廷に申請し許されている。元慶7年(883年)6月に100人ほどの群盗により筑後守・都御酉が射殺されて邸宅が略奪を受けたが、8月月初に群盗を捕縛して、朝廷に対して官人の派遣を要請するなど、管内の事件を処理している。
 これら地方官の業績を称えられ、貞観14年(872年)清和天皇から、元慶4年(880年)には陽成天皇から御衣を賜与されている。 

 承和3年(836年)12歳で文章生に補せられる。のち大内記を務め、天安3年(859年)には領渤海客使を兼ねたが、同年4月に父・安仁が没したため客使の職を辞している。
 貞観2年(860年)、従五位下・次侍従に叙任される。清和朝では、勘解由次官,大宰少弐,鋳銭長官,周防守,左衛門権佐などを歴任し、この間の貞観16年(874年)に従五位上に叙せられている。陽成朝に入り、元慶2年(878年)、五位蔵人兼右少弁に任ぜられると、元慶5年(881年)左少弁、元慶8年(884年)右中弁と弁官を歴任し、この間の元慶7年(883年)正五位下に叙せられている。
 仁和2年(886年)従四位下・陸奥守に叙任されると、寛平6年(894年)讃岐守と、光孝朝の半ば以降は主に地方官を務めた。寛平7年(895年)従四位上に至る。昌泰3年(900年)卒去。享年76。
 勅撰歌人として、『古今和歌集』に小野小町との贈答歌を含む、和歌作品2首が採られている。また、娘の讃岐も同じく和歌作品が1首入集している。 

安倍興行

 菅原是善門下で紀伝道を学び、文章得業生から対策に及第したのち、大内記任官中の貞観11年(869年)従五位下に叙爵。貞観12年(870年)藤原元利万侶による謀反事件に対応するため、推問密告使に任ぜられて大宰府へ下向している。また、勘解由次官の官職にあった貞観13年(871年)には太皇太后・藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために議論が行われた際、唐の典礼や朝廷の儀式制度に基づく諸儒者の説は現実的ではないとし、政務と祭礼の釣り合いに鑑みて臨機応変に日をもって月に替えて、服喪期間として心喪(喪服を着用しない)5月・制服(喪服を着用する)5日とすべきことを提案した。貞観14年(872年)に全国的な大旱魃が発生した際、終日降雨の祈祷を行ったところ雨が降り、万人が感嘆したという。
 元慶2年(878年)民部少輔から讃岐介に転じると、のち伊勢権守,上野介と陽成朝以降は地方官を歴任する。しかし、地方官を歴任したことに関して興行は不満を持っていたという。のちに讃岐守として同国に赴任した菅原道真は、興行の治績を賞賛する漢詩を残している。また、伊勢守の官職にあった元慶7年(883年)には端午節会に際して陽成天皇が武徳殿に渤海使を召喚した際、渤海使への応接を務めている。元慶8年(884年)正五位下に昇叙。
 仁和4年(888年)、阿衡事件の最中に文章博士に任ぜられ帰京する。寛平2年(889年)9月に重陽宴が開催された際、興行は巨勢文雄,菅原道真と共に式部省の文人簿に載せられていなかったところ、宇多天皇からの勅により特別に許されて宴に参加した。また12月には藤原基経が太政大臣の辞任を上表したが、その勅答を作成している。
 寛平3年(891年)頃、大宰大弐に任ぜられて九州へ下向する。寛平5年(893年)、新羅の賊が肥前国松浦郡に来襲した際には、大宰帥・是忠親王と共に追討を命ぜられている。その後、翌寛平6年(894年)にかけて新羅賊の来襲が頻発するが、興行に関する記録はなく、賊の追討の対応を行ったかあるいは帰京したか明らかではない。