K007:大彦命 | 阿倍阿加古 | AB01:阿倍阿加古 |
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阿倍内 鳥 | 阿倍 人 |
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推古天皇16年(608年)、日本に渡来した隋使・裴世清に対して物部依網抱と共に導者(案内役)を務め、裴世清から受け取った隋の国書を大伴咋に伝達した。推古天皇18年(610年)、新羅・任那の使人が来朝した際には、大伴咋,蘇我豊浦蝦夷,坂本糠手と共に四大夫の一人として対応している。 |
用明朝において、遣使として高句麗に渡る。これに因んで子孫は狛(狛朝臣)姓を称した。 |
阿倍内(阿倍倉梯)麻呂 | 阿倍御主人 |
かつては、氏が阿倍で、名が内麻呂(倉梯麻呂)と見られていたが、阿倍内鳥の子とみなして、氏は阿倍内(阿倍倉梯)の複姓で、名は麻呂と考えられるようになった。なお、内は内廷との関わりを、倉梯は大和国十市郡の地名を示す。 |
天武天皇元年(672年)に発生した壬申の乱では大海人皇子側につき、このときの功績で持統朝に入ってから100戸の封戸を与えられている。 |
阿倍広庭 | 布勢人主 |
文武朝の慶雲元年(704年)、前年に没した父・御主人の功封100戸の内の1/4を継ぐことが許される。和銅2年(709年)以前に正五位下、和銅4年(711年)正五位上、和銅6年(713年)従四位下に叙せられるなど、元明朝にて順調に昇進を果たす。 |
孝謙朝の天平勝宝2年(750年)に遣唐判官に任ぜられ、天平勝宝4年(752年)に大使・藤原清河らと共に唐に渡る。天平勝宝5年(753年)11月に遣唐使の第四船に乗船して唐を離れ、道中で船が火災に遭うトラブルに見舞われつつ、翌天平勝宝6年(754年)4月に薩摩国石籬浦に漂着し、5月には渡唐の功労により従五位下に叙爵し、駿河守に任ぜられた。天平勝宝7年(755年)、駿河国防人部領使として防人歌10首を進上している。 |
阿倍毛人 | 阿倍嶋麻呂 |
天平18年(746年)、従五位下に叙爵し、翌天平19年(747年)玄蕃頭に任ぜられる。天平勝宝6年(754年)、山陽道巡察使。 |
聖武朝の天平12年(740年)、従五位下に叙爵。天平19年(747年)従五位上、天平感宝元年(749年)に侍従に叙任される。この間の天平20年(748年)元正上皇の崩御の際には養役夫司を務めている。 |
阿倍古美奈 | 久努麻呂 |
奈良時代の女官。内大臣・藤原良継の室。桓武天皇皇后・藤原乙牟漏の生母となる。 |
天武天皇4年(675年)4月8日に麻呂は当摩広麻呂とともに朝廷に参上することを禁じる勅令を受ける。4月14日には麻呂は勅命を帯びた使者に従わなかった罪で官位を剥奪された(このとき冠位は小錦下)。 |
阿倍沙弥麻呂 | 阿倍東人 |
系譜は明らかでないが、大錦下・阿倍名足の子とする系図がある。官位は正四位下・参議。 |
天平宝字8年(764年)、藤原仲麻呂の乱後に従五位下に叙爵。天平神護3年(767年)には伊勢守を務めていたが、同国度会郡の等由気の宮(現在の豊受大神宮)の上に五色の瑞雲が立ち上って宮の上を覆ったとして、雲の形を書写して進上した。この頃、平城京でも同様に瑞雲が見られ、これらを契機に神護景雲への改元が行われ、東人は従五位上に昇叙された。 |
安倍寛麻呂 | 安倍安仁 |
天平宝字元年(757年)に生まれるが、桓武朝末までの前半生の事績は不明で、40代後半の延暦22年(803年)になって中務少丞に任ぜられ、初めて歴史上に登場する。 |
若くして校書殿に出仕したのち、嵯峨朝では山城大掾,中務少丞,民部少丞を歴任する。 |
安倍貞行 | 安倍清行 |
文徳朝の仁寿元年(851年)従五位下に叙爵し、翌仁寿2年(852年)右衛門権佐に任ぜられる。その後、左衛門権佐,右中弁,刑部大輔と京官を歴任し、この間の斉衡3年(856年)従五位上に叙せられている。 |
承和3年(836年)12歳で文章生に補せられる。のち大内記を務め、天安3年(859年)には領渤海客使を兼ねたが、同年4月に父・安仁が没したため客使の職を辞している。 |
安倍興行 | |
菅原是善門下で紀伝道を学び、文章得業生から対策に及第したのち、大内記任官中の貞観11年(869年)従五位下に叙爵。貞観12年(870年)藤原元利万侶による謀反事件に対応するため、推問密告使に任ぜられて大宰府へ下向している。また、勘解由次官の官職にあった貞観13年(871年)には太皇太后・藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために議論が行われた際、唐の典礼や朝廷の儀式制度に基づく諸儒者の説は現実的ではないとし、政務と祭礼の釣り合いに鑑みて臨機応変に日をもって月に替えて、服喪期間として心喪(喪服を着用しない)5月・制服(喪服を着用する)5日とすべきことを提案した。貞観14年(872年)に全国的な大旱魃が発生した際、終日降雨の祈祷を行ったところ雨が降り、万人が感嘆したという。 |