AB01:阿倍阿加古 | 阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 | AB08:阿倍比羅夫 |
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阿倍比羅夫 | 阿倍宿奈麻呂 |
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阿倍氏は複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする。 |
持統天皇7年(693年)、直大肆に叙せられ、食封50戸を与えられる。
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阿倍駿河 | 阿倍子島 |
和銅4年(711年)に従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。養老4年(720年)正月に従五位上に進む。同年9月28日に東北地方で蝦夷の大規模な反乱が起こり、陸奥国按察使・上毛野広人が殺害された。翌29日に駿河は鎮狄将軍として節刀を授けられ、征夷将軍・多治比縣守と共に軍を率いて東北地方へ遠征する。養老5年(721年)4月に乱を鎮圧して京に帰還。その後、正五位下に叙せられた。 |
大宰大監を経て天平13年(741年)に従五位下・肥後守に叙任される。天平18年(746年)兵部少輔として京官に遷る。天平19年(747年)にはかつて聖武天皇の発願により諸国に造立が指示されていた国分寺(金光明寺と法華寺)について、十分に造立がなされていないとして、石川年足,布施宅主と共に諸国に派遣され、寺地の適否の調査と造作状況の視察を行っている。 |
阿倍毛人 | 安倍家麻呂 |
天平18年(746年)従五位下に叙爵し、翌天平19年(747年)玄蕃頭に任ぜられる。天平勝宝6年(754年)山陽道巡察使。 |
光仁朝の宝亀3年(772年)、従五位下・兵部少輔に叙任。宝亀10年(779年)従五位上に叙せられる。翌宝亀11年(780年)3月に陸奥国で宝亀の乱が起こると、中納言・藤原継縄が征東大使に任ぜられるなどの乱追討関連の任官に伴い、家麻呂は出羽鎮狄将軍に任じられ出羽国に赴く。同年8月には二階の昇進により正五位上に叙せられると共に、蝦夷の攻撃にさらされて維持が難しくなっていた秋田城の存廃に関連して、帰属して城下に居住していた俘囚が動揺している旨を上奏。これを受けて朝廷では秋田城の防衛強化が図られ、専使あるいは専当の国司による鎮守方式を採ることになり、これが後の秋田城介の起源になったとされている。 |
安倍比高 | 安倍忠良 |
左近衛将監を経て、貞観4年(862年)従五位下・武蔵介に叙任される。その後、貞観6年(864年)出羽権介、貞観7年(865年)陸奥守と清和朝において東国の地方官を歴任する。 |
後に奥六郡の支配者となった俘囚長・安倍頼時の父として『陸奥話記』に記されている。これに対して、平範国による『範国記』長元9年(1036年)12月22日条に「陸奥国権守」に任命された「安倍忠好」を忠良と同一人物とする見方もある。忠良(忠好)が一族郎党を連れて京都から陸奥へ下向し、奥六郡に土着して俘囚を従えたとする「中央貴族出身」説もある。 |
安倍良照 | 安倍家任 |
若くして僧籍にあったため甥の家任を養子とした。永承6年(1051年)からの前九年の役では頼時に従って家任とともに小松柵の守備にあたった。小松柵が頼義軍に焼き払われ、さらに家任らが出家して帰降するなど安倍軍の敗北が決定的となると出羽国に落ち延びたが出羽守源斉頼に捕らえられて大宰府に配流となった。同じく太宰府に配流された家任の没後、家任の遺児秀任の養育にあたったという。 |
叔父・安倍良照の養子となる。前九年の役では、養父・良照や父兄に従って活躍するが、その後出家し、兄の宗任らと共に大宰府に配流された。なお子・秀任は家任の死後に良照に養育されている。秀任は小松小太郎と称した。秀任には祐任という一人息子がおり、子孫は戦国時代に小松黒沢氏となり、徳川家旗本・仙台藩士として近代に残ったという。 |
阿倍安麻呂 | 阿倍虫麻呂 |
慶雲2年(705年)、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。 |
天平9年(737年)に正七位上から五階の昇叙を受け、外位ながら従五位下に叙せられ、皇后宮亮に任ぜられる。同年12月に長く病んでいた皇太夫人・藤原宮子が玄昉の看病により回復して、久しぶりに聖武天皇と相見えたことから、中宮職の諸官人が昇叙され、虫麻呂も内位の従五位下への叙位を受けている。天平10年(738年)中務少輔に遷る。 |
阿倍仲麻呂 | |
文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉,井真成がいた。唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、唐の玄宗に仕える。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白,王維,儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。 |