方広寺
ほうこうじ (Hoko-ji Temple)
【T-KT046】探訪日:2015/10/4
京都府京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
【MAP】
〔駐車場所〕
1586(天正14)年、豊臣秀吉が松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定であったが、いったん中止され、1588(天正16)年に、場所を蓮華王院(三十三間堂)北側にあった佛光寺の敷地に変更して再開した。秀吉は高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。大仏殿は1595(文禄4)年に完成。当時の敷地は広大なもので、現在の豊国神社,京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺,豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。
この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きく6丈3尺(約19m)の大きさであったという。造営期間短縮のため、木造漆膠で造られたが、翌1596(文禄5)年に発生した慶長伏見地震により倒壊。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に激怒したという。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れている。
秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎えることを計画し1597(慶長2)年に大仏殿に遷座された。すると、翌1598(慶長3)年、秀吉は病に臥し、これは善光寺如来の祟りではないかということで、ただちに信濃国の善光寺へ戻されたが、その翌日の8月18日に秀吉はこの世を去った。
その後、1599(慶長4)年、豊臣秀頼は木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るが、1602(慶長7)年、流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と大仏殿は全て焼失してしまう。
1608(慶長13)年より片桐且元を奉行として再建が開始され、1612(慶長17)年には大仏殿と大仏が完成した。1614(慶長19)年には梵鐘も完成した。ところが、梵鐘の銘文(東福寺,南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とする家康および徳川家を冒とくするものとみなされ、最終的には大坂の陣の誘因となってしまう(方広寺鐘銘事件)。
大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、1662(寛文2)年の地震で大破。その後も大仏は木造で再興されたが、1798(寛政10)年の落雷により大仏殿とともに焼失した。江戸時代後期の天保年間(1830~44年)には尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興されたが、これも1973(昭和48)年の火災により焼失した。
なお、方広寺という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。方広寺命名の経緯,時期は不明だが、経典(大方広経)から採ったといわれ、また経典にかこつけて「豊公」の名を託したとも考えられる。
梵鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺,知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿は東西約55m,南北約90mの規模で、大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。大仏殿のあった場所には明治時代に豊国神社が建てられた。
門前の「大仏餅」で有名であった餅屋には石川五右衛門が住みこんでいたという伝説がある。鴨川河原まで通じる抜け道もあったという。門前,餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。
【史跡規模】 |
【指 定】方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔:国指定史跡 |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1588年 |
1595年・1596年・1598年 |
1608年・1612年・1614年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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豊臣秀吉 | ZZ01 | 深覚坊応其 | **** | 豊臣秀頼 | ZZ01 |
片桐且元 | G*** | 徳川家康 | TG01 | 石川五右衛門 | **** |
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▲本堂
▲本堂
▲大黒尊天
▲鐘楼
▲鐘楼
▲鐘楼
▲梵鐘
▲「国家安康」と「君臣豊楽」の文字
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▲鐘楼の天井画
▲鐘楼の天井画
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