耳塚(鼻塚)
みみづか(はなづか) (Burial Mound for Severed Ears[Noses])
【Z-KT003】探訪日:2015/10/4
京都府京都市東山区茶屋町533-1
【MAP】
〔駐車場所〕
豊臣秀吉の朝鮮出兵のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮,明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。1597(慶長2)年に築造され、同年9月28日に秀吉の意向に添って相国寺住持の西笑承兌によって京都五山の僧が集められ盛大に施餓鬼供養が行われた。当初は「鼻塚」と呼ばれていたが、林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まった。2万人分の耳と鼻が埋められている。
戦国時代までの武士は戦功の証として、高級将校は死体の首をとって検分し首塚で供養していたが、農民兵や足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を証した。文禄・慶長の役では首をそのまま持ち帰ることが難しいことや、人身売買目的での誘拐(人取り)の抑制として、豊臣秀吉が耳や鼻の量が一定に達した者(一定の戦功を挙げた者)から人取りを許可したため大規模に行われた。首と異なり個人の判別が困難であるため、鼻は通常ヒゲが生えている鼻の下から唇までを斬っていた。運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬,酒漬にして持ち帰ったとされる。