蓮華王院(三十三間堂)
れんげおういん (さんじゅうさんげんどう)(Rengeo-in Temple[Sanjusangendo Hall])
【T-KT018】探訪日:1994/5/14・2015/10/4
京都府京都市東山区三十三間堂廻り657 <📲:075-561-0467>
【MAP】
〔駐車場所〕
この地には元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて1165(長寛2)年に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、1249(建長元)年の火災で焼失した。1266(文永3)年、本堂のみが再建されている。当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。
三十三間堂について次のような伝承がある。長年頭痛に悩まされていた後白河上皇は、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げを受けた。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。そこで上皇は三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。
室町幕府の将軍足利義教の命により、1433(永享5)年から5年をかけて、本堂や仏像の本格的な修復が行われている。
桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)の境内に含まれ、周囲の築地塀(太閤塀:国重文)などが整備された。1600(慶長5)には豊臣秀頼によって南大門が、翌年には西大門(現・東寺南大門:国重文)が建立されている。また、その間に本堂や仏像の修復が行われている。豊臣家の滅亡後、江戸時代の初期には方広寺ともども三十三間堂は妙法院の管理下に置かれるようになり、現在も三十三間堂は妙法院の飛び地(境外仏堂)となっている。
三十三間堂の名称は、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
また、三十三間堂は「通し矢」の舞台ともなり京の名物行事となった。桃山時代に行われ始め、江戸時代には各藩の弓術家により腕が競われた。縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を放ち、距離約121m先の的を射るのである。
建築物では本堂が国宝である。現在の堂は1266(文永3)年の建造で、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。入母屋造,本瓦葺き,桁行35間,梁間5間とする。実長は桁行が118.2m,梁間が16.4mである。
堂内には、中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊千手観音坐像を安置。本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体X10段)の千手観音立像が立ち並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体となる。千体仏の手前には二十八部衆像28体が横一列に並び、内陣の左右端には風神,雷神像を安置する(ただし、二十八部衆像のうち4体は本尊の周囲に配置されている)。1000体のうち124体は本堂創建時の平安後期の尊像、そのほかは鎌倉期に16年かけて再興されたものである。その約500体には作者名が残されており、運慶,快慶で有名な慶派をはじめ、院派,円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加し創りあげたものである。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 平安時代:後期 | 鎌倉時代 | 室町時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1165年 | 1249年・1266年 | 1433年 | 1600年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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後白河上皇 | K329 | 平 清盛 | H107 | 湛慶 | **** |
足利義教 | G333 | 豊臣秀吉 | ZZ01 | 豊臣秀頼 | ZZ01 |
<三十三間堂の仏像配置>
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲法住寺殿跡
▲法住寺殿跡
▲太閤塀
▲太閤塀
▲太閤塀
▲太閤塀
▲南大門
▲南大門
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▲東面
▲東面
▲南側東面
▲東面と北面
▲南面と東面
▲南面と西面
▲南面
▲南面
▲西面
▲西面
▲西面
▲通し矢射場