東福寺
とうふくじ (Tofuku-ji Temple)
【T-KT024】探訪日:2015/10/4
京都府京都市東山区本町15丁目778 <📲:075-561-0087>
【MAP】
〔駐車場所〕
1236(嘉禎2)年、摂政九条道家は、この地に高さ5丈(約15m)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願し、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って東福寺とした。5丈の釈迦如来像は1249(建長元)年に完成し、安置する仏殿の建設工事は1239(延応元)年から始めて、1255(建長7)年に完成した。九条道家は開山として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧の円爾を迎えた。円爾は九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛した。
当初、天台,真言,禅の三宗兼学の寺院として建設され、1273(文永10)年には法堂も完成し五重塔をも備えた大伽藍となったが、1319(元応元)年2月、大火災で伽藍は全焼し、高さ5丈の本尊釈迦如来像も焼失した。再建が進められたが、1334(建武元)年1月に方丈が焼失した。1336(延元元)年8月には兵火にあって仮仏殿が焼失するもこの8月のうちに再建に着手され、5丈の本尊・釈迦如来像も再び造立し、室町幕府の支援もあって1346(貞和3)年6月には前関白一条経通により仏殿の上棟式が行われている。この際、東福寺は兼学寺院ではなく禅寺として復興が行われた。
1351(観応2)年には南朝の後村上天皇の祈願所となっている。そして、1386(至徳3)年、法堂が再建、1454(享徳3)年には三重塔が建立された。室町時代には足利義持によって修理が行われている。
1470(文明2)年、応仁の乱の戦火に遭っていくつかの塔頭が焼失し、1526(大永6)年にも焼失するが、天正年間(1573~93年)に豊臣秀吉によって寺領1854石が安堵されて再興された。江戸時代になると徳川家康や徳川家光によって修理がなされている。
明治時代となり神仏分離令が出されると、70ヶ院近くあった塔頭が25ヶ院になった。1881(明治14)年12月の大火で仏殿,本尊釈迦如来像,法堂,方丈,庫裏などの主要な建物が焼失してしまった。日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア軍捕虜を入れる捕虜収容所にもなっている。
1917(大正6)年より仏殿と法堂を兼ねた本堂が建てられ、塔頭の万寿寺から釈迦如来像を移して本尊とし、1934(昭和9)年に完成している。現在の本堂,方丈,庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所),浴室,禅堂などは焼失を免れ中世の建物が現存している。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 鎌倉時代 | 南北朝時代 | 昭和時代:前期 |
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関連年号 | 1236年・1249年・1255年・1273年 | 1336年・1346年 | 1934年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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九条道家 | F710 | 円爾 | **** | 一条経通 | F721 |
豊臣秀吉 | ZZ01 | 徳川家康 | TG01 | 徳川家光 | TG03 |
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▲三門
▲三門
▲三門
▲三門
▲三門
▲本堂(仏殿)
▲本堂
▲本堂
▲本堂
▲本尊釈迦三尊像
▲【転載】蒼龍図
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▲浴室
▲禅堂
▲禅堂
▲経蔵
▲庫裡
▲方丈南庭
▲方丈南庭
▲唐門
▲方丈南庭
▲方丈南庭
▲方丈南庭
▲方丈西庭
▲方丈北庭
▲方丈
▲方丈
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▲龍吟庵
▲偃月橋
▲龍吟庵
▲即宗院
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▲【転載】月下門
▲日下門