顕本寺

けんぽんじ(Kenpon-ji Temple)

【T-ME006】探訪日:2024/12.3

【T-ME006】顕本寺 三重県桑名市萱町74-74 <📲:0594-22-5581>

【MAP】

〔駐車場所〕寺院北の道路を挟んだところに参詣者用駐車場がある。

【T-ME006】顕本寺

   開創年は定かではないが、かつては天台宗寺院で大泉寺と称し、1509(永正6)年、身延山久遠寺第12世法主である円教院日意が上洛する際に当寺に滞在し布教したことで、当時の住職である実成は、日意に心服して弟子となり、当寺を顕本寺と改称、日意を中興第1世、自らは日相を名乗り第2世となった。この時、塔頭大泉院をはじめとして、僧坊は19院に及んだという。
 もともと顕本寺は桑名城三ノ丸にあったが、のちに藩主・本多忠勝の「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業によって現在地に移された。
 第5世の日実の頃には、かなり衰退し塔頭も大泉院ひとつだけになっていた。さらに、その頃起きた洪水によって、仏像,仏具類は残らず全て流されてしまう。のちに大鳥居村で仏像を得て持ち帰り、草庵を建てて祀ることができ、当時、四日市代官であった水谷九左衛門光勝は仏堂を再興し、日透を招聘して第14世住職とした。
 その後、檀家であった桑名藩士の久松忠義は、吉村又右衛門宣充らの隣の土地を購入して当寺に寄付。次いで、忠義の子である久松義重や吉村権左衛門宣秀らは堂宇を建立し、他の久松氏一族も各自宝物等を寄進した。
 1820(文政3)年、火災で類焼したが、1835(天保6)年には本堂が再建された。塔頭大泉院には、南柳院と実成坊という2院もあったが、後に廃絶されている。1945昭(和20)年7月にも太平洋戦争の空襲を受けて焼失したが、再建されて現在に至っている。
 檀家には桑名藩士が多く、関連する墓が多数現存し、中でも、吉村又右衛門宣充の墓水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財となっている。また、服部正重はじめ桑名藩家老の服部半蔵家の墓も多くみられる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 江戸時代:中期
関連年号 1509年 1835年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
円教院日意 **** 実成(日相) **** 日実 ****
水谷光勝 H*** 日透 **** 久松忠義 SW**
吉村宣充 **** 久松義重 SW** 吉村宣秀 ****

 

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