<神皇系氏族>天神系

KD12:奥平氏行  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉経行 ― 奥平氏行 ― 奥平貞俊 KD13:奥平貞俊

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奥平貞俊 奥平貞昌
 初代当主。作手奥平氏の祖。父・奥平定家と弟の定直とともに上野国甘楽郡奥平郷より三河国作手郷に移住し川尻城を築いた。遠州山崎の住人の山崎三郎左衛門高元という奥平定家の妻の縁者の伝手で作手郷に入ったといわれている。その後、1424年には亀山城を築いて奥平氏の居城とした。

 今川氏に仕えて三河国東部に勢力を伸ばした。永正2年(1505年)、今川氏親により遠江国浜松荘の一部を所領として宛がわれた。
 永正11年(1514年)、今川氏親の遠州曳馬城攻めに呼応し、 同国の井伊谷に在る御嶽城(三岳城)を攻め落とした。以後、この城番を務める。この頃の奥平氏は戸田氏とともに今川氏の傘下として松平氏や牧野氏と争っていた。
 ところが、松平清康が東三河平定に乗り出す享禄年間(1528年~32年)には清康に従い、八名郡の宇利城攻略戦に従軍。『寛政重修諸家譜』では天文4年4月20日に御嶽城において、85歳で病死したと言われている。ところが、奥平氏の三河時代の菩提寺であった広祥院の記録(広祥院記)には、享禄年間中に三州額田郡の宮崎城へ移って隠居、ここで死去したとあり、判然としない。
 なお、嫡子・貞勝は60歳を過ぎてからの子と言われるが、その後も3人の男子、2人の女子に恵まれている点で、生年さえ疑われることがある。

奥平貞勝 奥平貞能

 享禄3年(1530年)5月、松平清康が八名郡の宇利城を攻めると、これに従軍。搦手門から攻め入り、功を挙げたという。その後、清康の横死(森山崩れ)で弱体化した松平氏から今川氏に転属した。天文11年(1542年)、対織田信秀戦の小豆坂合戦では岡崎勢の与力に付けられる。
 弘治2年(1556年)、前室の縁で水野信元からの織田家への誘いを受けると、これに応じ、今川氏を離反。さらに縁戚の田峯菅沼氏まで誘って蜂起した。同年2月15日、自領から岡崎方面にある今川方・秦梨城への先制攻撃を敢行。秦梨城主・粟生将監永信を退散させたことに端を発し、鎮圧に派遣されてきた今川方の東条松平勢を貞勝の弟・久兵衛貞直が日近城での籠城の末に撃退する(日近合戦)。ひとまず優位に立っていた貞勝であったが、今川義元の軍令を受けた菅沼定村や本多忠俊といった東三河の諸将によって本格攻勢を受ける。同年8月には日近とは別方面で宝飯郡との郡境に近い雨山城への攻撃を防ぎ得ず、失陥してしまう(雨山合戦)。織田氏の援軍を満足に得られずに蜂起から半年ほどで鎮圧されて、今川氏再属を余儀なくされた。再属に際し、弟・貞直を処分することで離反の罪を赦免されている。
 永禄3年(1560年)5月、今川義元の尾張侵攻に参戦。松平元康(後の徳川家康)の与力として、大高城への兵糧運び入れを支援するが、同月19日に今川義元の本隊が崩れると自領に退却した。
 その後、東三河の諸家が挙って松平氏へ転属することとなっても事態を静観。だが、宝飯郡で最後まで抵抗していた牧野氏でさえ転属するなど、今川氏の三河支配権回復が見込めない事態になったところで、ようやく家康へ転仕した。永禄11年(1568年)12月、徳川家康の遠江侵攻では、嫡子・貞能に参戦させている。
 武田軍が三河に侵攻してきた元亀2年(1571年)以降には、これまで通り家康服属を説く嫡子・貞能を制して、武田氏服属を決定するなど、隠居でありながら家中での発言力を保持していたことがうかがえる。天正元年(1573年)8月21日、貞能が孫の信昌ばかりか家中の大半を引き連れて武田氏を離反し徳川氏に再属した際には、貞勝は次子・常勝など少数派とともに武田方に留まった。やがて、三河の所領を放棄して、甲斐に移住した。そのため、長篠の戦いには参戦していない模様である。
 その後、武田の滅亡で甲斐に留まれなくなった貞勝は、子の貞能を頼って三河額田郡に隠棲した。本来、武田滅亡後に家康への再属を願い出た三河出身者には、厳しい処分が待っており、次子・常勝などは殺されたが、老齢の貞勝は咎められなかった。貞能らの嘆願があったものと考えられている。文禄4年(1595年)に没した。享年84。

 奥三河の国衆である山家三方衆の一つで、奥三河の作手亀山城を本拠とする国人。永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に敗死した後、東三河の諸侯に遅れて今川氏から離反し、徳川家康に属した 。家康の遠江侵攻に従うほか、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参戦する。翌元亀2年(1571年)から、武田信玄の三河侵攻が活発化。信長と家康の関係を遮断、三河撹乱を目論む武田軍の先遣・秋山信友が侵攻するも、それまでの力攻めから方針を改めて、降伏を勧める使者を送り出してきた。奥平氏へも勧降の使者が来訪するが、貞能の意思としては断固拒絶、家康への臣従を貫くつもりでいた。だが、隠居の父・道文(貞勝)の発言力が勝っていたため、以後は武田方として三河、遠江の各地を転戦、三方ヶ原の戦いなどに参戦している。
 元亀4年(1573年)春、野田城を降しながら撤退する武田軍を不審に思っていたが、やがて、秘匿されていた信玄の死を確信する。同年7月から包囲されていた三河設楽郡長篠城の救援に向かう武田軍の中に貞能もいたが、この来援を待てなかった長篠城主・菅沼正貞は翌月には降伏し、城を明け渡した。無事だった正貞は、徳川と通じているとの疑念をもたれ、救援の武田軍に身柄を拘束された。ところが、内通疑惑は貞能へも波及。貞能への疑惑は真実で、家康とは密かに連絡をとりあっていたそうだが、この時点では武田信豊たち援軍諸将には露見せずに済んだ。しかし、初期の3人以外に更なる人質の供出を強いられるなど次第に立場を悪くした。
 一方、その頃家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平を味方に引き入れることを考え、奥平に使者を送った。貞能の答えは「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は信長に相談した。信長は「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。家康は信長の意見を入れ、貞能に「1.亀姫との婚約のこと、2.領地加増のこと、3.貞能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること」を提示した。元亀4年6月22日、貞能は家康に「1.信玄の死は確実なこと、2.貞能親子は徳川帰参の意向であること」を伝え、しばらくして再び徳川の家臣となった。
 8月21日、一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川方に走った。それに伴い、離反から5日後の8月26日には、次男・仙千代をはじめとした人質3人が処刑された(一説には串刺し刑であったともいわれるが、定かではない)。
 天正元年(1573年)に長男・貞昌に家督を譲って隠居し、自身は家康の許にあって、奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。
 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、酒井忠次に属して鳶ヶ巣山奇襲隊として参戦し、窮地に陥っていた長篠城救援に貢献した。戦後は、信長と家康の両将から見込まれた信昌を引き立たせるべく、表舞台から完全に退いている。
 天正18年(1590年)3月、小田原遠征の途中で三河額田郡長沢に逗留した豊臣秀吉から招かれ、長篠の戦話などを所望された。その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められている。上洛後は美作守に叙任され、秀吉の相伴衆として二千石を与えられた。秀吉薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領した。慶長3年(1598年)12月11日、伏見において病没。62歳。

奥平貞治 奥平信昌(貞昌)

 当時の奥平氏は今川氏や松平氏など、従属先を次々と変えていくことで命脈を保っていた。元亀2年(1571年)以降は甲斐武田氏に所属し、武田軍の一員として三河国や遠江国を転戦する。貞治もこの時期、三方ヶ原の戦いに従軍している。
 天正元年(1573年)8月21日、当時の奥平家当主・奥平貞能は、武田信玄の後を継いだ武田勝頼から離反し、徳川家康への再属を決断する。貞治も長兄・貞能を支持、武田への従属を主張する老父・貞勝や次兄・常勝と袂を分かち、一族郎党の大半を率いての亀山城出奔に随従した。ちょうどこの頃。長篠城を奪回した家康によって長篠城を託された奥平氏は、長篠守備隊と家康直属の貞能部隊に分割された。貞治は長篠守備隊に配属され、対武田との最前線で戦う貞能嫡子・奥平信昌を助力する。
 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで奥平氏は、僅か500の将兵で勝頼率いる武田軍に対し善戦する。織田信長,徳川家康の両将が救援に駆けつけるまで持ちこたえた。戦勝に際し、信昌は信長から絶賛されたという。
 天正14年(1586年)、豊臣秀吉に対面する家康の御供を務める信昌に付随した際に、秀吉から家臣として所望された。そのため貞治は、秀吉の黄母衣衆(5000石)になった。
 慶長5年(1600年)6月、関ヶ原の戦いの呼び水となった会津征伐へも同行する。この際、家康によって結城秀康に付けられる。関ヶ原本戦では、戦前東軍への内応を約束していた小早川秀秋の軍監に付けられた。決戦当日、貞治は松尾山で去就に迷った秀秋を督促するが、秀秋は戦局を傍観するだけで兵を動かそうとしなかった。これに業を煮やした家康が正午過ぎになって、小早川隊の陣取る松尾山へ鉄砲を放たせたことによって、秀秋も最終的に東軍への加担を決意する。この際、小早川隊の先鋒を務めた松野主馬が主君の裏切り行為に納得できず、近臣を率いて戦線を離脱した。そのため、貞治は指揮官の居なくなった松野隊を代わりに率いて松尾山を駆け下り、西軍・大谷吉継の右翼を強襲した。ところが、数で勝るはずの小早川隊が大谷隊に苦戦する。小早川隊の寝返りに激怒した吉継が配下を奮い立たせ、頑強な抵抗を示したのである。軍監である貞治も鮮血を浴びながら白刃を振るって小早川隊を鼓舞し続けることとなる。最終的に大谷隊の撃破に成功し、東軍を勝利に導いた小早川隊であったが、貞治は戦闘中に致命傷を負ってしまう。
 戦後、関ヶ原の戦いにおける貞治の活躍を高く評価した家康であったが、既に貞治は死去していた。貞治には子が居なかったため、家康はその生母へ供養料300石を年々給することで貞治の勲功に報いたという。

 奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していた。桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江国掛川城攻めに加わった。
 元亀年間(1570~73年)には武田氏の三河への侵入を契機に武田氏に属したが、その後、徳川側へと離反。激怒した武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5000の大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠城し、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきった。その結果、同月21日の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた。
 この時の戦いぶりを織田信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいるものの、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。
 家康もまた、名刀大般若長光を授けて信昌を賞賛した。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して一人一人に労いの言葉を掛けた上に、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を保証するという特異な御墨付きまで与えた。信昌はこの戦いの後に、父・貞能から正式に家督を譲られた。
 天正13年(1585年)、徳川氏の宿老・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔した。数正によって秀吉に自家の軍事機密が流出するのを防ぐため、家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めた。かつて武田家に臣従していた信昌は、この軍制改革に貢献したという。
 天正18年(1590年)7月、関東へ国替えとなった家康と共に関東に移転した。同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封する。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に参加(一方で家史,中津藩史では、秀忠軍に属していたと記載あり)。戦後は京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務める。この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。
 慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原の戦い後に関する一連の功として、上野国小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。慶長7年(1602年)、加納で隠居し、3男・忠政に藩主の座を譲った。
 慶長19年(1614年)には、忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれるが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の役への参陣を免除された。そこで、唯一参戦した末男・松平忠明の下へ美濃加納の戦力だけは派兵している。翌年3月に死去。

奥平正勝 奥平貞友

 奥三河の作手亀山城を本拠に持つ国人の1つにすぎなかった奥平氏は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて戦勝に大きく寄与し、家運を開き始めた。そんな頃に満千代は生まれた。宗家の従兄・牧庵(奥平貞能)は戦勝後、徳川家康の娘婿となった信昌に家督を譲り、隠居していた。その従兄との年齢差が大きかった上に、従兄の子・信昌よりも年少であったためか、信昌の猶子になったという。
 少年時代には羽柴秀吉への人質になっていた時期があったといわれるが、定かではない。
 宗家の信昌は、満千代の身の上を案じていた模様。七族五老といわれる重臣衆の1家でもあった黒屋甚右衛門勝直が、文禄3年(1594年)に嗣子の無いまま亡くなったため、その跡式を相続させている。黒屋家では勝直の弟が健在であったが、それも構わずに奥平姓のままでの相続を命じている(一説には勝直の娘婿になったとも)。満千代は、生家から実父・貞行が用いていた掃部の通称を使用、奥平掃部正勝と名を改めた。これにより奥平氏の家中では、黒屋の姓は黒屋勝直以前の傍系で見られるのみで、正勝の血統からは直系・傍系であろうと用いられることはなくなった。ただ奥平姓の重臣が多い中、呼び分けの意味合いで黒屋家、もしくは黒屋奥平家という呼び名だけが残った。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属す奥平家昌の配下として参戦。上田城の戦いで働きを示した。関ヶ原の戦勝にともない、主君・家昌が宇都宮藩10万石への加増転封となると、これに付随。1000石の扶持を受ける重臣の1家として、家昌の治政を助けている。元和7年に死去、44歳と伝える。
 家系は正勝の孫・内蔵允正輝の代で断絶。領内の興禅寺における喧嘩刃傷事件が発端であった。責めは主家へも及び、羽州山形藩への減石転封となっている。

 三河日近城主として本家奥平貞能に仕える。天文16年(1547年)に今川義元の東三河進出に功績を挙げたことで、今川氏に追われた形原松平氏の所領を得るが、翌年には今川氏から離反したとして形原を没収され、その混乱に乗じて形原松平氏の松平家広が旧領に復帰している。
 弘治2年(1557年)には貞能と共に反今川氏の兵を挙げて今川方に留まった貞勝と戦うが敗れる(東三忩劇)。今川義元は貞能が貞勝らによって高野山に追放されたのを受けて、貞友を処分をすることで奥平氏を許すことにしたが、処刑される筈の貞友は逃げ延びて抵抗を続け、追放された筈の貞能も後に赦免されるなど、今川氏による奥平氏への支配が強化された反面、首謀者たちの処分は曖昧なままに終わった。
 元亀2年(1571年)奥平一族が武田信玄に降ると、武田方の人質として長女・おふうを差し出す。天正元年(1573年)奥平一族が武田家を離反し、再び徳川家に帰参したため、人質のおふうは、三河鳳来寺口で処刑された。
 天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、一族で長篠城に篭城し勝利に貢献した。戦後家康から、他の奥平一族と共に、直接その功績を賞される。また、おふうの犠牲を憐れんだ家康のはからいで、次女たつが家康の義弟・松平定勝の正室として迎えられた。
 天正13年(1585年)7月10日死去。嫡男・貞由(貞重)は、父の死後、叔父の奥平貞政に養われ、慶長7年(1602年)貞政と共に、奥平本家を離れて姉婿の松平定勝に仕えた。子孫は、代々伊予松山藩松平家の家老として続き、明治維新を迎える。

奥平貞由 奥平貞守

 三河日近城主・奥平貞友の子として生まれる。誕生の年に父が死去し、叔父の三郎兵衛貞政による養育を受ける。慶長7年(1602年)、叔父・貞政と共に、奥平宗家の知行地宇都宮を退去し、姉婿である久松松平定勝の知行地掛川に移る。同年上洛の途中、掛川に立ち寄った於大の方に拝謁する。慶長9年(1604年)、定勝より知行400石を賜り大名分となる。元和年間、桑名で400石の加増を受ける。寛永12年(1635年)、主君で甥の松平定行の伊予松山転封の供をし、1000石の加増を受け家老となる。正保4年(1646年)、ポルトガル船が来航したため、長崎探題職の定行の供をして、長崎に出向き海上警備にあたる。
 明暦元年(1655年)3月21日死去。享年71。家督は嫡男の貞守が相続した。

 慶長19年(1614年)、遠江掛川で生まれる。寛永12年(1635年)、家中の席次の争いから、備前下津井に退去する。寛永14年(1637年)、従兄の伊予今治藩主・松平定房の招きで今治に赴く。寛永18年(1641年)、伯母・二之丸殿の仲裁で、伊予松山藩に帰参する。
 寛永19年(1642年)、江戸詰となり、新知300石を賜り大名分となる。後100石の加増を受け家老となる。明暦元年(1655年)、父の死去により家督と知行1800石を相続する。寛文元年(1662年)、200石の加増を受ける。寛文2年(1663年)、藩主・松平定長の家督相続御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川家綱に拝謁する。寛文5年(1665年)、300石の加増を受ける。寛文8年(1668年)、200石の加増を受け知行2500石となる。延宝7年(1679年)、堺の商人・西九郎兵衛より大名物北野茄子茶入を購入して、藩主・松平定直に献上する。貞享元年(1685年)、家老職を辞職し隠居、家督を嫡男貞虎に譲る。貞享元年(1685年)12月21日死去。享年72。

奥平貞幹 奥平貞蔭

 享保4年(1720年)11月27日、松山で生まれる。享保17年(1732年)、享保の大飢饉における藩政の不始末の責任を問われ、父・貞継が蟄居を命じられる。享保19年(1734年)、新知1500石を賜り、大名分嫡子並とされる。享保21年(1736年)、蟄居処分を解かれ、貞継が大坂表に立ち退く。寛保元年(1741年)8月、貞継の政敵であった家老・奥平貞国が、久万山騒動(久万山地域の領民が大挙して大洲藩に逃散する事件)の責任を負わされて流罪となる。同年12月、家老,組頭となり与力を預かる。寛保2年(1742年)4月、大坂表より、貞継が帰藩し家老に復帰。宝暦8年(1758年)、軍用方を兼任。宝暦10年(1760年)、500石の加増を受ける。宝暦13年(1763年)、藩主・松平定功の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川家治に拝謁。明和2年(1765年)、藩主・松平定静の家督相続の御礼言上の際に、将軍・家治に拝謁する。
 安永2年(1773年)、父の隠居によりその知行3500石のうち1500石を相続し知行3500石となる。安永3年(1774年)1月8日死去。享年56。

 寛政5年(1793年)、伊予松山藩家老の吉田張奉の4男として松山に生まれる。寛政9年(1797年)、前年嗣子なく家名断絶した奥平藤左衛門家を、新知1200石大名分として相続する。文化5年(1808年)、知行1500石となり組頭として与力を預かる。文化8年(1811年)、家老となる。文化10年(1813年)、藩主・松平定通の将軍御目見の際に、将軍・徳川家斉と世嗣・家慶に拝謁する。文政6年(1823年)、伊勢桑名照源寺で行われた崇源院殿(松平定勝)二百回忌御法事の代拝を務める。文政11年(1828年)、軍用方を兼任。文政12年(1829年)、家老を辞職。文政13年(1830年)、知行3300石となり、同姓奥平貞熈の長男・隼人を養子とする。同年、家老に復職し軍用方を兼務。天保6年(1835年)、藩主・松平勝善の家督相続御礼言上の際に将軍・家斉に拝謁する。天保9年(1838年)家老を辞職。弘化4年(1847年)12月11日死去。享年55。
奥平貞臣 奥平信光

 文化6年(1809年)3月17日、伊予松山藩家老の奥平貞熈の長男として松山に生まれる。文政9年(1826年)、大名分となり擬米200俵。文政12年(1829年)、家老となり擬米300俵。文政13年(1830年)、家老・奥平昌蔭の養子となる。天保9年(1837年)、江戸城西丸炎上の際に、江戸藩邸の藩士を率いて江戸城内紅葉山の警備に当たる。天保14年(1843年)、家老を免じられる。弘化5年(1848年)、養父の死去により家督と知行3300石を相続、大名分,組頭として与力を預かる。嘉永3年(1850年)、家老に復帰。
 安政3年(1856年)、藩主・松平勝成家督相続御礼言上の際に、将軍・徳川家定に拝謁。同年家老を免じられる。文久元年(1861年)、家老に復帰。元治元年(1864年)、禁門の変の際、御所警護のために松山より藩兵を率いて出陣。7月16日に京に到着し、紙屋川警備に就く。19日長州軍が間道から下立売門に向かった知らせを受け、兵を下立売門に向けるも戦闘の終了した後であった。明治元年(1868年)、隠居して家督を嫡男の貞操に譲る。明治23年(1890年)8月25日死去。享年82。
 貞臣は、俳人奥平鶯居としても知られる。地元松山の塩見黙翁、江戸の田川鳳朗の門人となり俳諧を学ぶ。後に俳諧宗匠として、大原其戎とともに伊予俳壇の中心人物となり、中央俳壇にもその名を知られた。句集に『梅鶯集』を残す。明治14年(1881年)6月、『愛比売新報』の別冊俳誌『俳諧花の曙』を創刊しその選者となる。

 永禄元年(1558年)5月17日に三河に侵入した隣国・美濃の岩村遠山氏の軍勢と、宗家の奥平定勝と共に名倉船戸橋で戦った。この合戦の功績を今川義元に賞され、幼名松千代宛で感状が与えられたのが史料上の初見である。
 同4年(1561年)以降に松平元康が三河で独立すると松平氏(徳川氏)に従属し、同12年(1569年)の徳川氏による遠江侵攻に従軍して掛川城攻めに加わった。この時点で信光は徳川重臣で西三河の統括者でもある石川数正の指南を受けている。 元亀元年(1570年)12月に武田氏の武将の秋山虎繁が東美濃の岩村遠山氏の領地を通過して奥三河へ侵攻しようして勃発した上村合戦において出陣したものの遠山氏が惨敗する様子を見て、殆ど戦わずして早く退却し、名倉城に逃げ入った。元亀3年(1572年)10月に武田信玄による三河・遠江侵攻(西上作戦)が行われると、奥平宗家と共に武田氏に従属して三河先方衆となった。しかし翌年8月に宗家の奥平定能・信昌父子が徳川氏に帰参すると、信光も同じく徳川氏に帰参したらしい。天正3年(1575年)4月に武田勝頼により三河侵攻が行われると、武田方に属していた津具郷の土豪・後藤九左衛門らを討ち取り、徳川氏より賞されている。
 同9年(1581年)10月13日、武田攻めの準備に向けて織田重臣・滝川一益より三河・信濃国境に信濃侵攻の拠点を普請すべく、陣城普請について相談を求められた。その後、信光は武節城に入ったという。
 翌10年(1582年)の武田氏滅亡後、天正壬午の乱にて旧武田領国の甲斐・信濃が動揺する中で、信光は本多信俊と共に甲斐の河尻秀隆の元に派遣されたとされる。
 同18年(1590年)に徳川氏が関東に移封されると、信光は家康4男・松平忠吉の重臣となった。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの論功行賞で忠吉が尾張に移封された際も従った。
 慶長12年(1607年)3月に忠吉が死去すると、引き続き尾張清洲藩主となった家康9男・徳川義直に仕えたが、義直後見役の平岩親吉や小笠原吉次らと旧忠吉家臣との対立の結果、同14年(1609年)3月に追放される。その後、帰参を赦され、大坂の陣にも参陣した。寛永7年(1630年)3月15日に死去。子孫は尾張藩士となった。