<桓武平氏>高望王系

H155:服部保親  平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 季衡 ― 服部家長 ― 服部保親 ― 服部正成 H156:服部正成

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服部正成 服部正就

 天文11年(1542年)、服部保長の4男として三河国伊賀(岡崎市伊賀町)に生まれた。保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。なお、伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある。
 『寛政重修諸家譜』によると、弘治3年(1557年)、16歳のときに、三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立てたという。この際、家康から持槍を拝領したという。元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いでは武功を立てたため、家康から褒美として槍を贈られ、伊賀衆150人を預けられる。
 天正7年(1579年)に家康の嫡男・信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき、検使につかわされ介錯を命ぜられたが「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることができず、家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をより一層評価したという。この時の様子は 大久保彦左衛門の『三河物語』にも描写されている。もっとも信康とはほとんど面識が無く、この逸話は後世の創作であるとする説もある。
 天正10年(1582年)6月、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このときの神君伊賀越えに際し先祖の出自が伊賀である正成は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀,甲賀の地元の土豪と交渉し彼らに警護させて一行を安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで護衛しており、彼らは後に伊賀同心,甲賀同心として徳川幕府に仕えている。
 小牧・長久手の戦いでは伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している。
 天正18年(1590年)の小田原征伐で家康に従軍した。その功により遠江に8000石を知行した。家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され、同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父親が伊賀出身であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったという。
 慶長元年11月4日(1596年12月23日)に没し、江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗寺院・安養院の後身である。
 半蔵門は、半蔵の屋敷が門前にあったことから名づけられたという。半蔵門から始まる甲州街道は甲府へと続いており、服部家の家臣の屋敷は甲州街道沿いにある。江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が治めており、享保3年(1718年)に柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれた。甲州街道は江戸城に直結する唯一の街道で、将軍家に非常事態が起こった場合には江戸を脱出するための要路になっていたといわれる。服部家の改易後、伊賀組は江戸城内(大奥,中奥,表等)を警護し、甲賀組は江戸城外の門を警護していたという。

 父の死により、服部家の家督、服部半蔵の名と、伊賀同心200人の支配を引継いだ。しかし、正就は、徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない配下の伊賀同心を、さながら自分の家来であるかのように扱った。そのため伊賀同心は反発し、慶長10年(1605年)12月、四谷長善寺(笹寺)に籠って正就の解任と与力への昇格を要求する騒ぎに至った。このため、正就は役を解かれた。
 正就は逆恨みし、伊賀同心の首謀者10名に死罪を要望。そのうち、逃亡した2名中1名を探し出して切り捨てたが、別人であることが分かり、完全に職を失うこととなった。そして正就は、妻の父である伏見藩の松平定勝の下に召し預けられた。
 その後、名誉挽回を狙い、松平忠輝の軍に属して大坂の陣に参加するも、行方不明となる(『寛政重修諸家譜』は天王寺口で討ち死にとする)。

 

服部正辰 服部正重

 父・正就は幕府の旗本で、慶長10年(1605年)12月罪を得て改易となり、元和元年(1615年)戦功を立てて赦免を受けるべく、大坂夏の陣に出陣し、大坂天王寺で戦死する。
 幼い正辰は、叔父の松平定行の元で養育された。成長すると同じく叔父の松平定綱に仕え、2000石の合力を受け、後に3000石に加増された。寛文3年(1663年)、日光門主・守澄法親王に願書を提出し、旗本としての復帰を訴え、老中に面談するために江戸に滞在中に病死。享年55。家督は長男正容が相続。次男・保元は、親族の松平定長に招かれて家臣となり、同じく、3男・正純は、松平定房に招かれ家臣となった。松山騒動の責任を取らされ、流罪となり、後に殺害された伊予松山藩家老の奥平久兵衛貞国は、次男・保元の子。④

 1580年(天正8年)、2代目・服部半蔵である服部正成の次男として浜松あるいは岡崎で出生する。『服部半三武功記』によれば同年、父の正成は浜松にて織田信長家臣と徳川家康家臣の紛争に関与し、家康の指示で秘密裏に牢人となり妻子と共に浜松を離れたとされる。この事件ののち関ヶ原の戦いまで正重の動向は不明であるが、正重は初め徳川秀忠の小姓、のちに徳川家康の近侍を務めたとの記述がみられるため、少年期にはすでに家康・秀忠の身辺に仕えていたとみられる。大久保長安の娘婿となり佐渡金山の政務に関わるが、些事により改易され、以後29年間を村上藩に仕える。
 1614年、大坂の役で行方不明となった兄・服部正就(3代・目服部半蔵)に代わり、服部家の家督と4代目・服部半蔵を襲名する。
 晩年は兄嫁の実家である久松松平家の松平定綱に召し抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなる。正重は1652年、73歳で没した。3代目半蔵正就以降、服部半蔵家は伊賀同心の支配役を解かれており、また正重自身も佐渡島へ金山同心として赴任・居住していたため、江戸の伊賀同心支配には関わっていなかった。

服部正義 服部康成

 弘化2年(1845年)9月29日、桑名藩家老・服部半蔵正綏(11代目服部半蔵)の長男として生まれる。幼い頃より経史を好んで学び、成長するにつれて武芸も身につけた。元治元年(1864年)2月には肥後国へ赴き、木下犀潭の下で経史を学ぶ。
 慶応元年(1865年)に帰国し、21歳で家督を継ぐと服部半蔵(12代目)を名乗り、700石取りの家老となる。この時、主君である松平定敬は京都所司代として在京していたため、正義も付き従って京都で定敬を補佐する。
 慶応3年(1867年)の藩政改革で、家老職が廃止され、代わりに御軍事惣宰に就任。しかし、慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで、桑名藩は敗北したため、定敬に従って江戸へ脱出する。新政府軍はさらに江戸へ追撃の構えを見せたが、国元では正義の実弟である酒井朝雄(孫八郎)を中心とした重臣達が新しい藩主として、先代藩主・松平定猷の遺児である万之助(後の松平定教)を擁立して既に降伏していたため、帰国も困難となり、桑名藩分領地の越後国柏崎へ逃れる。
 定敬に付き従っている家臣の間では、抗戦派と恭順派に分かれて意見が激しく対立していた。正義も一時は恭順派であったが、抗戦派に説き伏せられる。一転して徹底抗戦の覚悟を決めると、藩軍再編成時には自ら御軍事惣宰の再任に名乗りを上げ、再び桑名藩全軍の指揮を任される。正義は以後の戦いの記録を『服部半蔵日記』として書き残し現在に伝わっている。
 長岡,会津,寒河江と転戦するが、明治元年(1868年)9月26日に庄内で降伏、身柄を拘束される。以後、鶴ヶ岡城下の西方、大山の椙尾神社に移され謹慎となる。新政府軍からの強い通告で、やむなく全桑名藩士の武器全てをまとめて差し出したが、正義自身の小銃だけは、庄内の世話係であった犬塚又兵衛に密かに預けて、新政府軍には渡さなかった。
 明治2年2月5日、庄内藩に護衛されて庄内を出発、3月20日に桑名に帰国する。しかし、当時の桑名は名古屋藩と津藩の占領下にあったため帰宅は許されず、十念寺にて謹慎を命じられる。8月には桑名藩の再興が認められ、11月に戦争責任者として桑名藩士の森陳明の切腹により、桑名藩への戦後処理が終わる。12月になって正義たちも赦され、謹慎が解かれた。
 明治3年(1870年)3月に桑名藩大参事兼軍務都督に就任するが、明治4年(1871年)の廃藩置県により免職される。明治7年(1874年)に三重県第九大区区長に任命されると固辞するが、その後は三重県第一大区区長、明治9年(1876年)には第三大区区長を歴任する。
 明治10年(1877年)の西南戦争勃発時、正義は「戊辰戦争において桑名藩に朝敵の汚名を着せた西郷隆盛に恨みを晴らし、桑名藩再興を赦した明治政府の恩義に報いるには今しかない」と兵を募ると数百人が集まり、明治政府の募兵に応じ、政府軍に編入される。同年7月、新撰旅団第四大隊第四中隊長として参戦、鹿児島へ赴く。戦争終結後、政府よりその軍功により褒賞を受ける。
 凱旋後の明治11年(1878年)3月に、三重県第三大区区長に再度任命され、明治12年(1879年)2月まで勤める。明治13年(1880年)7月、旧桑名藩士が政府から廣瀬野(現・鈴鹿市)の開拓資金を貸し付けてもらえるよう、桑名藩士の為に力を尽くした。明治15年(1882年)6月には、三重県御用掛となるが、のちに病になり辞職する。
 明治19年(1886年)1月22日に桑名で亡くなり、顕本寺に葬られた。享年42。実弟である酒井朝雄共々温厚篤実な人柄であったが、少々体が弱く病にかかりやすい体質であった。墓は一時期、無縁仏の墓石群中にあったが、現在は単独で祀られている[1]。

 徳川家康に仕えた服部正成の庶長子とも、同族ともいわれている。出身は伊賀と伝わり、服部姓並びに半蔵(正成)の「成」を名乗っていることから、正成と近しい血縁関係にあったとも推測されている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける大垣城の戦いで、攻撃軍の武将である津軽為信に300石で召し抱えられ、武功を挙げたという。その後は1,000石に加増され、奉行職(家老)となった。
 慶長12年(1607年)12月、為信が死去し、幕府より2代・信枚の後見人として、弘前藩から2,000石、幕府から1,000石を与えられ、都合3,000石で弘前藩筆頭家老となり藩政を統括した。「無類の良臣」と讃えられたといわれている。
 慶長14年(1609年)5月より、弘前城築城計画に参加。元和9年(1623年)7月、将軍・徳川秀忠が家光と共に、家光の征夷大将軍宣下のために上洛するに際し、信枚がこれに供奉し、康成も手勢36名を率いて参加した。寛永2年(1625年)、青森港開港に際し、町割りの責任者を務めた。
 寛永7年(1630年)、岩木山百沢寺山門、寛永8年(1631年)、大平山長勝寺山門の新築の惣奉行を務めた。
 寛永11年(1634年)、藩内に船橋騒動が発生し、筆頭家老として解決を試みるが、決着の前に病死した。長男の成昌が後を継ぐが、船橋騒動に幕府が介入し、喧嘩両成敗の裁定が下り双方に処分者が出ると、成昌はこれを不服として離藩。その後は加賀藩前田氏に仕官したとされる。弟の安昌は弘前藩に残留した。
 当初、美濃岐阜城主・織田秀信に仕えたが、のちに浪人して三河に住み、その後、関が原の戦いに従軍する為信の軍勢に参加した、とも伝わる。いずれにせよ、津軽氏に仕えるまでの経歴に確たる史料はない。「津軽藩旧記伝類」には、文禄・慶長の役の際に、肥前名護屋への使者としてその名が既に確認できる。
 大垣城攻略戦で功績を挙げたとはいえ、藩政を任されるほど重用された理由に関しては、津軽家は石田三成と親しく、三成滅亡後にはその遺児を庇護していることなどから、家康が弘前藩を警戒して監視役・付家老として康成を送り込んだ結果、いわば徳川政権の指令の伝達者として、藩政の中枢に置かれることとなったのではないかとする説がある。