<桓武平氏>高望王系

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服部保長 藤堂元光

 伊賀国花垣村(現・伊賀市)出身。先祖代々、花垣村予野で忍者の頭領を務める一族の出とされ、初代服部半蔵。
 伊賀の忍者には服部氏族の子孫である「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、狭い土地において生活が逼迫したため、その中の一家である千賀地家の保長は旧姓である服部に戻し、一族を引き連れ伊賀を出て室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えることとなる(北面武士就任の説もある)。
 だが当時は室町幕府の衰退期であり、保長は見切りをつけて三河国岡崎に赴き、松平清康に仕え、次いで永禄年間初めころ、徳川家に再仕官する。以上が通説であるが、詳細は不明である。また、松平家も清康の代には大きく伸長したが「森山崩れ」を境に一気に衰退、その間の保長の動向も不明である。
 保長により築かれたとされる予野の千賀地氏城に関する伝承によると、上記の伝承とは逆に、足利義晴に仕えていた服部保長が伊賀に戻って、千賀地氏を名乗ったことになっている。
 徳川家康の代に松平家改め徳川家が大きく伸長した頃には既にその子・服部正成の代になっている。

 藤堂采女家は、藤堂高虎に仕え藤堂姓を与えられた藤堂元則に始まり、代々の当主が「采女」の通称を名乗る。本姓保田氏。家紋は追洲流、三文字。初代・元則以降は伊賀上野城代を世襲した。
 寛永11年(1635年)、藤堂家家臣・藤堂元住の長男として伊勢津に生まれる。少年時代は江戸で幕府の証人を務めた。寛永17年(1640年)、祖父・元則が伊賀国上野城代に就任。慶安4年(1651年)には父・元住が上野城代に就任。
 承応3年(1654年)1月、元服して「市正」と改名。同年2月、藩主高次の娘・於梅と結婚。於梅の生母は高久の生母・於振(多羅尾氏)の妹・於多阿。貞享2年(1685年)1月27日、家督を継がないまま父に先立って死去。享年52。
長男・高稠は、元住の後を継いで藤堂采女家第3代・上野城代となった。6男・元甫(俳号白舌翁)は分家・元連の養子となって相続。采女家を相続した元福が幼いため、看抱を命じられ、当主代行し「采女」と名乗って上野城代を務めた。『三国地志』の著者として知られる。蕉門十哲宝井其角の門人。 妹の小鍋は、松尾芭蕉の仕えた藤堂良忠(藤堂蝉吟)に嫁いだ。小鍋の子の藤堂良長(藤堂探丸)は娘・久の婿。

藤堂元稠 藤堂元施

 寛文4年(1664年)藤堂家家臣・藤堂元光の4男として伊勢津に生まれる。幼名は「熊鶴」。母の於梅は2代藩主高次の庶子で、於梅の生母は3代藩主高久の生母於振(多羅尾氏)の妹於多阿。
 貞享4年(1687年)に祖父・元住が死去し、家督を相続して上野城代に就任した。享保16年(1731年)隠居して家督を嫡男の元社に譲るも、元社への上野城代職の世襲は許されず藤堂玄蕃良成が就任した。
 享保20年(1735年)8月12日、死去。享年72。

 

 幕末の伊勢津藩の家老で、藤堂采女家第9代。津藩の所領である伊賀上野城代でもある。別名は元施、通称は采女。
 家督相続前の文久3年(1863年)、天誅組の変が大和で起こると、天誅組の指導者である吉村寅太郎と面識があったことから味方しようとしたが、結局は幕命や勅命に逆らえずに天誅組の鎮圧に務めた。慶応元年(1865年)、家督を継いで津藩主・藤堂高猷に仕え7000石の家老・城代となった。
 慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは津藩軍の総帥を務め、幕府軍を裏切って新政府側についた。ただしこれは高猷に命じられて行ったことだといわれている。維新後は敢國神社の神官を務めた。明治11年(1878年)に死去。享年43。