元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗った。家康にとっては最年長の男孫であったことから(叔父・秀忠よりも年長)、刀や鷹を与えられるなど重用された。文禄4年(1595年)、豊臣姓を下賜された。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは木曾路を進む秀忠に従い、真田昌幸の信濃上田城を攻めた。 慶長6年2月6日(1601年3月10日)、関ヶ原の戦いの勝利後に命ぜられた京都治安活動を高く評価された父・信昌が美濃加納10万石を与えられた。そのため、それまでの上野宮崎領に家昌を残し、父母は弟の忠政を伴って配地へ赴任した。同年12月28日(1602年2月19日)、家昌も父に遅れて北関東の要地・下野宇都宮10万石を与えられると、翌月1月25日(1602年3月18日)、入国を果たした。これは、家康が北関東の要衝である宇都宮藩に誰を配するべきかと天海僧正に諮問した際、天海は誰彼と論ずる必要はなく奥平大膳に与えるべきと答え、家康も我が意を得たりとして家昌に10万石を与えたものである。宇都宮への加増転封にともない、文武一芸に秀でた浪人を多く召抱えて新たな家臣団を編成したものの、三河時代からの家臣団制度「七族五老」が機能的でなくなったのを痛感した家昌は、族臣7家と老臣5家を合一して「大身衆」と呼称変更した上で、その12家の中から5、6家が毎月交代で国政を担当し、有事には12家が協力して対応するように改めたのである。その12家は平等ではなく、指導的立場にある2家が2000石以上を食み、序列によって俸禄が定められた(末席でも1000石であった)。なお、戦時の先手を担当する山崎家と生田家だけには、大手門内に邸宅を構えさせている。 家昌は以後、宇都宮の城下町整備に尽力して毎月5日と10日に市を開催し(大膳市)、幕府が宇都宮大明神の社殿造営を始めると伊奈忠次と共に奉行を務めた。慶長16年10月13日(1611年11月17日)、正室・本多氏(もり姫)が死去した。慶長19年(1614年)には堀利重の身柄を預かった。 家昌は小鼓を嗜んだという。また、父譲りの武勇を持っていたが、慶長19年10月6日(1614年11月7日)、大坂冬の陣のため出兵を命ぜられるも病を患い、遠征には不参となる。そのため、3日後の同月9日には出兵を免ぜられた分、鳥居忠政らと共に江戸城の本丸留守居役を命ぜられた。ところが10月10日、父母に先立って宇都宮で死去した。享年38歳。 嫡男の千福ことわずか7歳の忠昌が11月18日に跡を継いだが、5年後の元和5年(1619年)に下総古河藩へ移封された。本多正純が代わって宇都宮藩主となったが、元和8年(1622年)の宇都宮城釣天井事件で改易されたため、忠昌が宇都宮へ戻った。
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慶長13年(1608年)、宇都宮藩主・奥平家昌の長男として誕生した。徳川家康の曾孫にあたる。 慶長19年10月10日(1614年11月11日)、父・家昌が病のため急死した。同月23日、大坂の陣により亡父が命じられていた江戸城の本丸留守居役は幼少では務まらないため、免除の下命が出された。翌月11月18日(12月18日)、ようやく家督相続が認められ、下野宇都宮藩10万石の藩主にわずか7歳で就任する。元服のとき、大叔父・徳川秀忠から偏諱を受けて忠昌と名乗った。元和2年(1616年)3月、傅役の桑名勝成を従えて駿府まで出向き、病床の曽祖父・家康を見舞うと寝所まで招き入れられ、白鳥鞘の鑓を授けられた。 元和5年10月13日(1619年11月18日)、日光東照宮参拝のため将軍・秀忠が宇都宮に立ち寄った際、生涯3度目の拝謁を賜る。この時、1万石の加増を受けるが、下総古河へ11万石(古河が6万石、下妻が2万5千石、小山2万5千石の計11万石)での転封が言い渡された。その後、元和8年(1622年)8月に宇都宮城釣天井事件の影響で宇都宮藩へ11万石で再封される。慶安2年(1649年)、将軍の日光社参の際の休泊所であった石橋宿の開雲寺境内に御殿を再建する。 明暦3年正月18日から19日(1657年3月2日から3日)には明暦の大火の煽りを受けて、日比谷の上屋敷、木挽町の中屋敷が類焼した。寛文8年2月19日(1668年3月31日)、江戸汐留の藩邸で死去、61歳。長男の昌能が家督を継いだ。
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