<神武朝>

K001:神武天皇  神武天皇 ― 稚武彦命 K006:稚武彦命

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稚武彦命 吉備武彦命

 『日本書紀』では子に関する記載はない。『古事記』景行天皇段では、子として景行天皇皇后の針間之伊那毘能大郎女(日本書紀では播磨稲日大郎姫)、景行天皇妃の伊那毘能若郎女の名を記す。そのほか、『新撰姓氏録』では吉備武彦命を始めとする諸人物を子孫として記載する。
  『日本書紀』では、稚武彦命の事績に関する記載はない。
  『古事記』孝霊天皇段では、若建吉備津日子命は大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)とともに吉備国平定に派遣されており、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として平定を果たしたという。

 吉備武彦の出自について『日本書紀』に記載はない。『新撰姓氏録』では、左京皇別下道朝臣条や右京皇別廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫である旨が記されているが、右京皇別真髪部条では稚武彦命の子とされている。
  子については、『日本書紀』景行天皇51年8月4日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王と十城別王の2子を産んだと見える。また『日本書紀』応神天皇22年9月10日条と『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条によると、浦凝別(苑臣祖)・御友別(吉備臣祖)・鴨別(笠臣祖)・兄媛(応神天皇妃)らの名が子として記されている。
  『日本書紀』景行天皇40年7月16日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたという。また同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流した。その後、日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされている。
関連して『古事記』景行天皇段では、吉備武彦と同一人物かは定かでないが、吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたことが記されている。

御友別命 鴨別命

 『日本書紀』応神天皇22年9月6日条では、天皇が吉備の葉田葦守宮に行幸した際、御友別は兄弟子孫を膳夫として奉仕させた。その功により、天皇は吉備国を割いて御友別子孫を次のように封じた。
・長子の稲速別 - 川島県(備中国浅口郡に比定)に封ず。下道臣祖。
・中子の仲彦 - 上道県(備前国上道郡に比定)に封ず。上道臣祖,香屋臣祖。
・弟彦- 三野県(備前国御野郡に比定)に封ず。三野臣祖。
・弟の鴨別 - 波区芸県(笠岡市付近か)に封ず。笠臣祖。
・兄の浦凝別 - 苑県(備中国下道郡曾能郷か)に封ず。苑臣祖。
・兄媛 - 織部を賜う。
こうした縁で彼らの子孫は今も吉備国にいると記している。

 『日本書紀』神功皇后摂政前紀では鴨別は吉備臣祖と見え、熊襲国討伐に遣わされたと記されている。
 同書応神天皇22年9月条によると、天皇が吉備に行幸した際に吉備国を分割して吉備臣祖の御友別子孫に封じたといい、この時に鴨別は「波区芸県」に封じられたという。
 また『新撰姓氏録』右京皇別笠朝臣条では、応神天皇の吉備行幸の際の伝承として、天皇が加佐米山に登った時に風が吹いて笠が吹き飛ばされたが、これを鴨別命が大猟の前兆であると進言し、果たしてそのようになったので「賀佐」の名を鴨別に下賜したという。

吉備上道田狭  吉備上道斐太都
 雄略天皇7年、吉備田狭が朝廷で妻の稚媛を自慢していることを聞いた雄略天皇が、吉備田狭が任那に出兵している間に稚媛を奪ったためだと日本書紀に記載されている。朝廷は吉備田狭の子、弟君を討伐に向かわせるも吉備田狭に寝返った。しかし、弟君はそのことを知った妻樟媛に殺された。反乱は失敗したが、吉備田狭は生き残った。

 孝謙朝の天平宝字元年(757年)中衛舎人を務めていた際、橘奈良麻呂らによる皇太子・大炊王(のち淳仁天皇)や紫微内相・藤原仲麻呂を殺害する謀反計画への参加を前備前守・小野東人から勧誘されるが、逆に藤原仲麻呂に対してこの計画を密告する。結果、関係者は捕縛され、謀反は未然に防がれた(橘奈良麻呂の乱)。この功績によって、従八位上から一挙に15階昇進して従四位下・中衛少将に叙任され、元の臣姓から朝臣姓を賜与された。さらに同年末には功田20町を賜与されている。その後も仲麻呂政権下において地方豪族としては異例の抜擢を受けた。仲麻呂に接近することで昇進を図ったことについては、同じ吉備地方の豪族出身の下道真備(吉備真備)が朝廷で既に重用されていたことへの対抗意識によるものとも考えられる。なお、仲麻呂政権下では正道を名乗っている。
 天平宝字8年(764年)正月に備後守に任ぜられ同国に赴任していたためか、同年8月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらない。翌天平神護元年(765年)和気王の謀反に連座して粟田道麻呂が飛騨員外介に左遷されたのと同時に飛騨守に任ぜられる。以前より斐太都は道麻呂に恨みを抱いていたことから、任地に到着すると道麻呂夫婦を一郭に幽閉し、数ヶ月のち夫婦はその中で死亡した。翌天平神護2年(766年)3月には早くも百済王利善が飛騨守に任ぜられていることから、斐太都はそれまでに飛騨守を解任されたとみられる。神護景雲元年(767年)9月23日卒去。