淳和朝の天長5年(828年)従五位下に叙爵する。 仁明朝では中務大輔を務め、承和7年(840年)右大臣・藤原三守の葬儀を監護した官人の中に名前が見えている。承和11年(844年)山城国校田使次官次いで丹後守と仁明朝末は地方官を務め、承和12年(845年)従五位上に叙せられている。 文徳朝末の天安元年(857年)美濃守に任ぜられる。清和朝の貞観元年(859年)には一族の笠豊主の娘で伊予親王の変に関連して母(浄村女王)と共に安芸国へ下り同国の采女となっていた凡貞刀自が笠宮子の本姓に復した際、数道は宮子の近親とみられる越前守・笠豊興と共にこれらの経緯を証明しており、一族を代表する立場にあったか。
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文徳朝から清和朝にかけて陰陽助を務め、斉衡3年(856年)外従五位下に叙せられ、天安元年(857年)権陰陽博士を兼ねる。 天安2年(858年)9月に大納言・安倍安仁らと共に文徳天皇の山陵の地を山城国葛野郡田邑郷に定め、10月に入ると山陵の地(真原山陵)に派遣されて地鎮を行っている。 貞観2年(860年)この年は19年に一度の朔旦冬至(11月1日が冬至)となるはずの年であったが、暦の上では11月2日が冬至となる事象が発生。閏10月末に諸家での議論の結果、暦をずらして朔旦冬至とすべきとの結論が出た。この結論を受けて暦博士・大春日真野麻呂と名高らに対して、暦をずらすことによる影響(二十四節気の錯誤など)の有無について下問がなされた。これに対して真野麻呂らは暦術を調査し、吉凶を踏まえて暦をずらすようなことは行わないのが通例であり、本来であれば今年は朔旦冬至とすべきでないこと、一方で群臣の議論により朔旦冬至としても暦への影響はないことを上奏し、朔旦冬至とすることが決まった。 貞観4年(862年)内位の従五位下に叙せられ、貞観8年(866年)備前権介、貞観10年(868年)備中介と地方官も兼帯した。貞観13年(871年)4月13日卒去。最終官位は従五位下行陰陽助兼陰陽博士。
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