<皇孫系氏族>孝霊天皇後裔

RY01:笠 小篠  笠 小篠 ― 笠 垂 RY02:笠 垂

リンク
笠 垂 笠 麻呂
 大化元年(645年)9月3日に垂は蘇我田口川堀,物部朴井椎子,倭漢文麻呂,朴市秦田来津らと共に、古人大市皇子を擁して謀反を企てる。しかし、垂は9月12日に中大兄皇子にこれを密告する(或本では、垂は阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂に自白したことになっている)。その結果、古人皇子はすぐさま、あるいは11月30日に攻められて息子ともども殺害された。垂はこの功で功田20町を賜った。なお、天平宝字元年(757年)になってから、この功労は中功に当たるとして二代に相続されることとなった。

 大宝4年(704年)正六位下から二階昇進して、従五位下に叙爵する。慶雲3年(706年)美濃守に任ぜられると、文武朝,元明,元正朝の三朝14年間の長きに亘って美濃守を務める。任期中の和銅2年(709年)藤原房前によって東海道,東山道諸国に対する行政監察が行われた際、尾張守・佐伯大麻呂らと共に国司としての治績を賞された。銅7年(714年)には吉蘇路(木曽路)を開通させた褒賞として朝廷から封戸70戸・功田6町を与えられた。
 元正朝に入ると、霊亀2年(716年)尾張守を兼ね、養老3年(719年)按察使が設置されると、これを兼ねて尾張,三河,信濃の各国を管轄した。
 養老5年(721年)に元明上皇の病気に際して、その平癒を祈るために勅命で男女100人に出家が命ぜられると、麻呂も出家を請うて許され満誓と号した。
 上皇崩御後の養老7年(723年)には観世音寺の造寺司に任ぜられて筑紫に赴任する。満誓は自ら希望して赴任したとの見方があるが、一方で、祈祷による上皇の快復が適わなかった僧への処罰の一環として、左遷された可能性がある。
 筑紫では神亀4年(727年)頃に大宰府に赴任した大伴旅人らと共に交流して筑紫歌壇を形成し、天平2年(730年)に現存する最後の歌を詠んだと推測される。その後の動静は伝わらないが、同地で没したと考えられる。

笠 雄宗 笠 広庭

 称徳朝の晩年、従六位上・伊予国員外掾の時に白い鹿を献上した、とある。
 それから、しばらく記録には現れないが、この間に外従五位下に昇進しており、桓武朝の延暦3年(784年)正月、文室真屋麻呂,藤原真作,大伴永主,石川魚麻呂,紀兄原,佐伯老らととも内位の従五位下に叙爵されている。同年4月、藤原縄主の後任の中衛少将に任命される。翌4年(785年)正月には林稲麻呂の後任の美作介、同年7月には三国広見の後任の能登守と、地方官を歴任している。以後の経歴は不明である。

 嵯峨朝の弘仁10年(819年)従五位下に叙爵。淳和朝では陸奥守を務め、在任中の天長5年(828年)従五位上に叙せられる。仁明朝の承和5年(838年)三階昇進して従四位下に至る。美濃守在任中の承和7年(840年)淳和上皇の崩御に伴い、本来であれば平安京から五位の官人を派遣して固関を行うべきところ、不破関のみ便宜的に国守の広庭が固関を命じられている。
 承和8年(841年)閏9月23日卒去。

笠 弘興 笠 金村

 木工権助を経て、貞観元年(859年)従五位下に叙爵。貞観3年(861年)土佐守に任ぜられると、尾張権介,遠江守,丹波(権)守と、一時的に民部少輔を挟んで地方官を歴任する。
 貞観18年(876年)に大極殿で火災が発生した際に、放火の嫌疑を受けて、前丹波守・安倍房上と共に捕らえられ拘禁された。房上は陽成朝において河内守に任ぜられ官人としての活動が見られるが、その後の弘興の消息は明らかでない。

 『万葉集』に45首を残しているが、そのうち作歌の年次がわかるものは、霊亀元年(715年)の志貴皇子に対する挽歌から天平5年(733年)の「贈入唐使歌」までの前後19年にわたるものである。特に神亀年間(724~729年)に長歌6首を詠み、車持千年,山部赤人と並んで歌人として活躍している。『万葉集』の巻6は天武天皇朝を「神代」と詠う笠金村の歌を冒頭に据えている。勅撰歌人として『玉葉和歌集』に2首が入集している。