<皇孫系氏族>孝霊天皇後裔

K006:稚武彦命 〔孝霊天皇後裔〕稚武彦命 ― 吉備下道速津彦 KB01:吉備下道速津彦

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吉備下道小梨 吉備下道前津屋

 『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇8年(西暦464年)、高句麗王に攻め込まれた
新羅王は任那(加羅)の王のもとに使いを遣わし、大和朝廷に救援を求めた。任那王が援軍として推薦した将軍は、膳臣斑鳩,難波吉士赤目子,吉備臣小梨であった。
吉備氏は前年、吉備上道田狭・弟君親子の離叛や、吉備下道前津屋の討伐があったばかりで、朝廷に対して苦しい立場であったことであろうと思われる。そのため、小梨は是非ともこの戦役で成果をあげなければならなかった、と推測される。
 高句麗軍は任那日本府からの派遣軍を恐れていた。日本府の将軍たちは兵士をねぎらいつつ、十日あまり布陣していたが地道を造り輜重を送り奇兵を設置し、夜明けにわざと撤退したかに見せかけた。高句麗軍が日本府の軍を追撃したところを奇兵で挟みうちにし大打撃を与えた、という。
 かくして、新羅救援作戦は成功し吉備氏もその面目を保ったのであった。

 吉備下道草能男の子ともいう。雄略天皇7年8月、吉備弓削部虚空を留め使い、月を経ても京に許し上らせなかった。しかし虚空は雄略天皇に呼ばれて、「前津屋は小女を天皇の人とし、大女を自分の人として、競い闘わせています。小女が勝つのを見ると、刀を抜いて殺しました。また小さい雄鶏を天皇の鶏とし、毛を抜き翼を切り、大きな雄鶏を自分の鶏とし、鈴・金の蹴爪をつけて、競い闘わせています。禿げた鶏が勝つのを見ると、また刀を抜いて殺しました」と報告した。天皇はこの話を聞くと、物部の兵士30人を遣わして、前津屋と併せて同族70人を殺させた。
吉備稚媛 吉備由利

 父は吉備上道臣、あるいは吉備窪屋臣、もしくは葛城玉田。
 『日本書紀』によると、稚媛は当初、吉備上道臣田狭の妻であり、田狭との間に兄君と弟君の二人の息子を儲けていた。ところが、田狭が妻の美しさを友人たちに自慢して語るのを雄略天皇が耳にしたため、田狭が任那の長官として朝鮮半島に派遣されている任期中に、天皇は稚媛を妃にしてしまった。このため、田狭は新羅と組んで叛乱を起こし、新羅征伐と、百済に「手末才伎」を求めてやってきた次男の弟君をそそのかして味方につけようとした。弟君はこれが原因で妻の樟媛によって暗殺され、寝室に埋められて死体を隠匿されてしまった、と伝えられている。
 そうこうしている間に稚媛は雄略天皇の二人の皇子を生み、このうち末の星川稚宮皇子を皇位につけることを願うようになった。しかし、白髪皇子(のちの清寧天皇)が立太子されてしまった。雄略天皇は遺詔の際にも星川皇子を皇位につけないよう言い残している。
 しかし、それでも稚媛は諦めきれず、天下之位に登らむとならば、先づ大蔵の官を取れと星川皇子に言った。星川の兄である磐城皇子の制止を聴かず、星川皇子は母親の言う通りにして、大蔵の役所を占拠し、外門をとざし閉めて敵に備え、官物を自由に扱った(略奪をした)。大伴室屋大連は天皇の遺詔に従い、東漢掬直に言って、大蔵を取り囲んで放火し、星川皇子を焼き殺してしまった。このときに稚媛ももう一人の息子である兄君ともども焼死してしまった、と伝えられている。政略に翻弄された悲劇の人生であった。
 この時、稚媛の一族である吉備上道臣たちは水軍40艘で来援しようとしたのだが、稚媛たちが火あぶりにあって殺されたと聞いて引き返してしまった。即位前の清寧天皇は、吉備氏の治めていた山部を没収した。この叛乱は『書紀』の年代を信じるのならば、西暦479年に起こったと推定される。

 奈良時代後期の女官。吉備真備の娘または真備の妹。吉備命婦とも記される。
 藤原仲麻呂の乱後の*天平宝字8年(764年)9月、稲蜂間仲村女とともに従五位下から正五位上に昇叙されたとあるのが、記録に現れる最初。同年、10月17日付の御執経所奉請経文に「吉備命婦」と見えている。
 仲麻呂の乱後、父(もしくは兄)の吉備真備とともに称徳天皇に信頼され、側近として典蔵を務めた。天平神護2年(766年)には、天皇のために一切経を書写している。神護景雲2年(768年)10月、従三位に昇進した。神護景雲4年(770年)、称徳天皇が病臥すると、同年8月に天皇が没するまでただ一人寝所に出入りを許され、群臣との取り次ぎを務めたという。この間、勅旨によって藤原永手と真備に軍事権が委ねられている。後に尚蔵となり、宝亀5年薨去した。
 天平神護2年10月8日の奥書を持つ「吉備由利願経」が西大寺などに現存している。

吉備真備 吉備 泉

 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学,音楽,兵学などの諸学問を幅広く学んだ。聖武朝の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着するが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した。  
 真備は渡唐の功労により従八位下から一挙に十階昇進して正六位下に叙せられるともに大学助に任官した。この抜擢人事から、真備の唐留学の実績を高く評価して重用しようとする朝廷の強く積極的な態度が窺われる。 
  藤原仲麻呂政権下、真備も天平勝宝2年(750年)に格下の地方官である筑前守次いで肥前守に左遷された。天平勝宝4年(752年)、真備らは再び危険な航海を経て入唐する。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂の尽力もあり、破格の厚遇を得られたという。翌天平勝宝5年(753年)6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き、11月に蘇州から日本へ向けて出航、真備は第三船に乗船すると、鑑真と同じく屋久島へ漂着し、さらに紀伊国牟漏埼を経由して、何とか無事に帰朝した。なお、この帰途では大使・藤原清河や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗し、唐に戻されている。 
 帰朝しても真備は中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754年)、大宰大弐に叙任されてまたもや九州地方に下向する。この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に赴任させたとの見方がある。まず、天平勝宝8歳(756年)新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築いた。  
 天平宝字8年(764年)正月に70歳となった真備は、致仕の上表文を大宰府に提出する。しかし、上表文が天皇に奏上される前に造東大寺長官に任ぜられ帰京する。また同年にはかつて真備が唐から持ち帰った大衍暦について、30年近くの長きに亘っての準備の末、儀鳳暦に替えて適用が開始されている。
 同年9月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画する。真備は中衛大将として追討軍を指揮し、兵を分けて仲麻呂の退路を断つなど優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げる。天平神護2年(766年)称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で正月に中納言へ、同年3月に藤原真楯薨去に伴い大納言へ、さらに同年10月には従二位・右大臣へ昇進して、左大臣・藤原永手と並んで太政官を領導した。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真の二人のみである。
 宝亀6年(775年)10月2日薨御。享年81。奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。 

 近衛将監を経て、天平神護2年(766年)に従五位下に叙爵し、翌天平神護3年(767年)大学員外助を兼ねる。同年従五位上、神護景雲3年(769年)正五位下・左衛士督、神護景雲4年(770年)7月には従四位下に叙任されるなど、称徳天皇の信頼が篤かった右大臣・吉備真備の子息として称徳朝では順調に昇進を重ねた。
 神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御してまもなく大学頭に転じるが、光仁朝では叙位に与ることはなく、称徳朝から一転して昇進は停滞する。天応元年12月(782年1月)の光仁天皇の崩御に際して山作司を務めた。
 桓武朝に入ると、天応2年(782年)に伊予守として地方官に転じる。しかし、下僚と協調できずにしばしば告訴されたため、延暦3年(784年)朝廷から詔使が派遣され訊問を受ける。泉は詔使に対してに不敬な対応をした上で、承伏しなかったことからに、官司が法に則って処罰を求める騒ぎとなった。遂には桓武天皇の詔により、功臣(吉備真備)の子であることをもって罪は許されるものの、伊予守の官職は解任される。その後さらに譴責を受けて、延暦4年(785年)には佐渡権守に左遷された。延暦14年(795年)には父祖の出身地である備中国に移されるが、桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免されて帰京するまで、桓武朝では不遇を託った。延暦25年(806年)桓武天皇崩御の際に山作司を務める。
 大同元年(806年)に平城天皇が即位し、観察使が設置されると、南海道観察使に任ぜられ、さらに准参議兼右大弁に抜擢されて公卿に列す。大同3年(808年)に38年ぶりの昇叙で従四位上となると、同年11月には正四位下に続けて昇叙されるなど、平城朝では順調に昇進する傍ら、左右大弁・右京大夫・刑部卿などを歴任した。
 嵯峨朝に入り、大同5年(810年)観察使制度の廃止により参議となる。『公卿補任』では同年9月に発生した薬子の変の最中に左大弁を解任されているとの記載がある。実際には大同4年(809年)6月より秋篠安人が左大弁の官職にあったが、弁官局が分局して平城宮にいた平城上皇に直侍し、泉がその責任者を務めていて、変後にそれを解かれた可能性も指摘されている[1]。のち、刑部卿・左衛門督などを兼帯するが、弘仁3年(812年)に致仕。弘仁4年(813年)正四位上に叙せられている。
 弘仁5年(814年)閏7月8日卒去。享年72。

岡田長人

 宝亀8年(777年)に第16次遣唐使の判官として唐に渡り、翌宝亀9年(778年)帰路で耽羅島(済州島)に漂着した海上三狩らを日本に迎えるために、宝亀10年(779年)2月に長人は遣新羅使に任ぜられる。7月には三狩らを率いて無事に日本に帰国し大宰府に至る。
 桓武朝の延暦3年(784年)外従五位下・大和介に叙任されている