<皇孫系氏族>孝霊天皇後裔

K006:稚武彦命  稚武彦命 ― 賀陽高室 KY01:賀陽高室

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明菴栄西

 久安4年(1148年)、8歳で『倶舎論』,『婆沙論』を読んだと伝えられる。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心に師事する。
 久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺,吉備安養寺,伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ自分の坊号を冠した葉上流を興す。
 保元2年(1157年)、静心が遷化して、遺言により法兄の千命に従う。翌年の保元3年(1158年)には千命より虚空蔵求聞持法を受ける。平治元年(1159年)、19歳の時に比叡山の有弁に従って天台宗を学ぶ。
 仁安2年(1167年)、伯耆大山寺基好より両部(金剛界・胎蔵界)灌頂を受ける。仁安3年(1168年)4月、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。
 嘉応1年(1169年)頃、備前金山寺を復興し、菓上流の灌頂を行う。安元元年(1175年)、誓願寺落慶供養の阿闇梨となる。また『誓願寺建立縁起』を起草。文治3年(1187年)、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。そして虚庵懐敞より菩薩戒を受ける。
 建久2年(1191年)、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺,千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。
 建久5年(1194年)、禅寺感応寺を建立。大日房能忍の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年)博多に聖福寺を建立し日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和,牽制を図った。
 建久9年(1198年)、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
 正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
 元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。建永元年(1206年)、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。承元3年(1209年)、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。承元5年(1211年)、『喫茶養生記』を著す。
 建暦2年(1212年)、法印に叙任。建保元年(1213年)、権僧正に栄進。頼家の子の栄実が栄西のもとで出家する。建保3年(1215年)7月5日、京都建仁寺で享年75で入滅。